美しき万魔殿

「ヘイズル。あれはなんです? あれがリヨールだというんですか? ヘイズルは、あんな化け物と何日も過ごしたのですか?」

「化け物? 口が過ぎるぞ、ミチカ。助けていただいたのに――」

「それはもういいです。ヘイズルの目にはどう見えているんです?」

「どう? どうとは?」

「どう見えているのか聞いているんです!」


 ミチカのただならぬ気配に、ヘイズルは思わず目を反らし言葉を選んだ。


「白ローブを着た信徒と、リヨール様が……」

「――分かりました。では、このプレートには何が乗っていますか?」

「何って……」


 ヘイズルはプレートを見下ろした。


「パンと、肉と、チーズ、それと、美味そうな柘榴が――」

「違いますよ、ヘイズル」


 ミチカは紫の瞳を鋭くした。


「パンとチーズ、それに得体のしれない肉と、赤い粒を埋め込んだ……これは何だ?」

「――なんだと?」


 あらためてプレートを見下ろすが、やはりそこにはパンとチーズと肉、柘榴しかない。

 正気か? 

 ヘイズルはミチカの瞳を覗いた。意志の強そうな紫の瞳は微塵も揺らいでいなかった。


「ミチカには、本当にそう見えているのか?」

「ヘイズル。私はあなたに嘘を吐いたりしません。命を預けたんですから」

「だが俺には――」

「なら、私を信じて、それを使ってください。真実の姿が見えるはずです」


 真実の姿だと? とヘイズルは手元のフィアーキラーに目を落とす。戦場で恐怖を殺す悪魔の薬。開戦当初こそ幾度となく使ったが、突撃部隊に編入されてからは痛み止めにすら使わなくなった。死など怖くない。敵など恐るるに足らない。飲みたくなかったのは、精神に変調をきたすのと、感覚の鋭敏化が嫌いだからだ。それに、健康被害もある。間違いなく。自身の躰で経験している。使いたくない。絶対に。

 けれど。


「……どうしてもか?」

「そんなに私が信じられませんか」

「いや違う。これは俺の――我儘みたいなものだ。――そうだ、せめて注射型の、FKⅠかFKⅢはないか? あれなら――」

「私が持っているのはそれだけです」


 ミチカは悔しげに下唇を噛み、ひとしきり手元を見、やがて意を決したように顔をあげた。


「――では、こうしましょう。飲む決心ができるまで私がヘイズルを守ります」

「おい、守るなんてそんな大げさな――」

「ヘイズルの我儘を聞くんです。私の我儘も聞いてください」


 嫌だとは絶対に言わせない。そう決意しているように見えた。


「まず、寝食は必ず私と一緒にしてください。今のヘイズルにはすべてが良いように見え、全てが良いように聞こえてしまっているはずです。それから、この部屋を出るときは必ず銃を携帯して――FKⅠかFKⅢを探してください。それならヘイズルも使えますよね?」

「ミチカ、いったい――」

「反論は認めません。ご自身で仰ったはずです。注射型なら使えると。このパンデモニウムの中を探してみてください。リヨールの分隊がいたんです。必ず、どこかに残っているはず」


 ――いた? なぜ過去形にする? なぜ、ミチカはこうも必死になっている。


 疑問と違和感が、澱のように溜まっていく。


「――分からん」


 ヘイズルは、顔を険しくするミチカに首を左右に振って見せた。


「まるで分からんが、分かった。ひとまずミチカの言う通り教会を――」

「パンデモニウムですよ、ヘイズル」

「……パンデモニウムを、見回ってみる」


 教会ではなく、悪魔の集会場か、と理解と言葉のギャップに戸惑う。


「ヘイズル。自分の目と耳を常に疑ってください。私が最後に会ったとき、リヨールもその配下も、まるで支離滅裂な言葉を繰り返していました。決して、忘れないでください。ヘイズルがリヨールだと言った生き物は人の形をしていません。信徒と呼んだ生き物もそうです」

「……分かった」

「もし、教会の鐘の音のような音が聞こえたら、それがリヨールが力を使った合図です」

「……ああ、分かった」


 言って、ヘイズルは席を立った。約束通り古い相棒のリボルバーを野戦服の下に隠し、ミチカには新式の拳銃を渡した。彼女はすぐに枕の下に隠した。

 そこまでするということは、本当に――。

 ヘイズルは身震いした。ミチカか、俺か、どちらかがリヨールの狂気に呑まれている。


「――ヘイズル。無事と御武運を祈っています」


 背中にかけられた言葉に、首だけを振り向き頷き返す。ヘイズルは一つ息を入れ、重い木の扉を閉じた。

 廊下に白ローブの姿はなかった。言われてすぐに食事を持って来れたからには、昼か、少し過ぎたくらいなのだろう。もし普通の教会と同じスケジュールで動いているのなら、今が礼拝堂に集まっているか、読書会か――いずれにしても人目を避けて動くなら好都合に思えた。

 窓を覗くと、つい通日前の長雨が嘘のように、澄んだ青空が広がっていた。


「……少し外に出てみるか」


 二日も三日もミチカに付きっきりで部屋から一歩も出ていない。昼も夜もなく、起きているのか寝ているのか分からない有様だった。

 薄暗く、一段一段がやけに高い階段を壁伝いに降り、ヘイズルは来るときに目にした庭に出た。燦々と降り注ぐ陽の光に反し、妙に肌寒かった。激しい雨で空気が冷えたのだろう。

 そう胸の内で納得すると、額に張り付く前髪がひどく気になった。躰は冷えているのに、後から後から汗が吹き出す。


「どうなってるというんだ」


 自分を鼓舞するように呟くと、目の奥が激しく傷んだ。まるで鉤爪で脳を引きずり出そうかというような、激しい痛みだった。背を丸め、目頭を押さえ、痛みが治まるのを待っていると、ポケットの奥に押し込んだフィアーキラーの包みが、


 俺を使え。


 と、強固に主張し始めた。痛みが消えるぞ。胸騒ぎも消える。あの死人や、ホープの幻影に悩まされずに済むぞ。


 ――うるさい。


 ヘイズルは両頬を打ち、空を仰いだ。絶対に使うものか。嫌いなんだ、お前は。

 ふと視線を感じ、目を向けると、三階の窓辺からミチカがこちらの様子を窺っていた。窓越しに、ちょいちょいと、右を指差している。つられて見ると、餌箱だけが入った大きな鳥籠がぶら下がっていた。あれだけいた鳩が、今日は一羽も見当たらない。夜や、雨が降っているならまだしも、これだけいい天気なのになぜだろうか。

 ミチカに視線を戻すと、飲め、と手で仕草していた。


 ――しつこいな。


 ヘイズルは苛立ち紛れに肩を竦めてみせた。てっきり怒ったふりでもされるのだろうと思っていたが、悲しげに眉をひそめただけった。


 違和の匂いが、鼻をついた。

 なぜ、怒ったふりを期待していた? 家族でも恋人でもないのに。

 細かな砂粒を流し落とすような音が聞こえた。足元に生えるハーブを見つめていると、それら一つ一つが、動き回っているのに気づいた。


 風か、雨か、それとも――。

 ここではないどこか、獣が遠吠えをあげた。珍しい。こんな昼間の、明るみの、なかで――


 ザッ! と豪雨が突如、出現した。


 驚き、見上げると、いつの間にやら空は暗雲に覆い隠されていた。いったいどれほどの時間ここに突っ立っていたのだろうか。気づけば、全身ずぶ濡れになっていた。

 慌てて宿舎に戻りつつ、間際に顔を上げると、じぃっとミチカがこちらを見ていた。

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