幻影の聖堂

 ヘイズルは水の滴る髪をかき上げ、聖堂へと足を向けた。たっぷりと水を吸った靴が、どう歩いてもガポガポと大きな音を立てた。もし勉強会でもしていたら迷惑になるかもと思ったが、いらぬ心配だった。


 聖堂は最初に見たときと同じく、穏やかで、荘厳で、恐ろしいまでにヘイズルの故郷にある教会そっくりだった。


 ステンドグラスの汚れに、彫像の『くすみ』や欠け、長椅子に残る傷や絨毯のほつれに至るまで、まるでヘイズルの頭を割り開き記憶を逐一確認しながら建築したかのようだった。


「……あり得るのか、そんなことが」


 遠く離れた異国の地。方や戦火も遠い裕福な土地で、方や国を守る最後の盾として築かれた要塞都市だ。まったく同じ建物が、汚れまでそっくり同じなどという――奇跡が。


「どうかされましたかな?」


 急に背後から話しかけられ、ヘイズルは叫びそうになった。一気に高まった鼓動を落ち着けようと胸に手を当てながら振り返る。


「祈りの時間はすでに過ぎておりますが、もしお望みのようでしたら――」 

「あー……いえ、少し外を歩いてみようと思っただけですから」

「ああ! なるほど! ずっと閉じこもっておりましたからな!」


 リヨールは哲学者のように厳しい顔を和らげ、両腕を腰の前で交差させるように振った。


「え、ええ……」


 あまり見かけた覚えのない奇妙な動きに声が微かに上擦った。動き続ける両腕に視線が向かおうとし、押さえこむにはリヨールの目を見るしかなかった。

 二つ並んだ大きな瞳が、腕と息を揃えてそれぞれ左右に揺れていた。


「これだけ天気もいいことですし、どうですかな、我々と散策など――」

「いい天気、ですか?」


 頬を伝った水滴が、ポツン、と足元に落ちた。

 リヨールの腕がピタリと止まり、柔らかな表情は消え去った。髭を蓄えた顎が大きく落ち、


「オオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォンンンン……」


 鐘の音が響いた。猛烈な音の圧力に胸を押され、ヘイズルは長椅子の背に左手をついた。鋭い痛みに思わず手を離してしまい、膝を床に打ち付ける格好になった。膝の傷みに歯を食いしばりながら手の平を見ると、朽ちた木くずが幾本も刺さり、血が滲んでいた。

 また、違和だ。

 リヨールが、大きく左右に手を広げ、膝の屈伸をしながら言った。


「ハハハ! 足が鈍っておられるようだ! 散歩に行かれるといい! いい天気ですぞ!」


 その場で跳ねるようにして背を向けると、両腕と指をピンと伸ばす軍隊の行進に似た手の振り方で、軽やかにスキップしながら去っていく。動きの派手さの割に進みは蝸牛より遅い。


「……そうですね。そう、しようと思います」


 口が回る。違和の匂いがする。ミチカの紫の瞳が、目と耳を疑えという声が、ヘイズルにポケットの中の飴を思い出させた。フィアーキラー。そうだ。フィアーキラーを探さなくては。


「リヨール、様」


 ヘイズルは、ピョンピョン跳ねる背に尋ねた。どうしても様がついてしまう。


「腕の傷が少々痛むので薬を探しているのですが、どちらにございますか?」

「薬!?」


 タン、とリヨールのつま先が床を叩いた。スキップの途中の、片足をあげた姿勢のまま固まって、そのまま喋りだした。


「薬がご入用でしたら、みなに言いつけてくだされ。遠慮なく。言いつけてくだされ」

「では――」


 フィアーキラーを。と口にしかけ、ヘイズルは咄嗟に言い直した。


「包帯と消毒……あと鎮痛剤がありましたら」

「鎮痛剤!? どこか痛むのかね!?」


 背中越しとは思えぬ嬉々とした大音量は、聖堂の丸天井に跳ね返り、頭の上に降ってきた。

 どこが痛む? どこが? それは、腕が――そう、強打した膝や、棘の刺さった手の平に痛みを覚えるのに、つい三日前まで硝子の欠片が刺さっていた腕が、傷まないはずがないから。

 違和の正体は、これか。

 ヘイズルはミチカの忠告を思い返し、言葉を選んだ。


「ええ。頭痛が少し」

「頭かね。なるほど、なるほど。では、」


 オオオオオオオオオォォォォォォォォォォォンンン……


 直上から落ちてくる鐘の音に、ヘイズルは歯を食いしばり耐えた。うわん、うわん、と蝿の羽音に似た耳鳴りが残る。


「……さあ、これで、どうです? 楽になりましたかな?」

「ええ。ありがとうございます。おかげで随分と……」


 ヘイズルはやっとの思いで平静を装い、さらに続けた。


「あとは、消毒と包帯を頂ければありがたい。そう――ミチカの部屋にお願いします」

「ボーレット君の? ヘイズル様がご所望なのかとばかり――」

「ええ。しばらくミチカの様子を見ていたくて。これでも上官なので」

「……なるほど。なるほど! ではそのように手配しておきましょう!」


 言って、ペタン、ペタン、とスキップを再開し、ゆっくり、ゆっくり、聖堂を出ていった。その間ずっと、ヘイズルは床に片膝をつき、頭を垂れた姿勢のままでいた。まるで、神の足元に伏す信徒のように。


 やがて、足音が消こえなくなると、ヘイズルは詰めていた息をどっと吐き出した。右腕を見れば、たしかに薄汚れた野戦服の切れ端が巻かれ、雨に濡れて血が滲んでいる。だが、傷みだけがすっぽり抜け落ちている。左手を開いてみても、刺さったままの朽ちた木くずと滲んだ血の跡はあるが、やはり傷みが消えていた。


 肩越しに振り向くも、そこには懐かしい長椅子があるばかりで、朽ちた長椅子はない。


 なら、俺は何に手をついた?


 腹の底で、殺意の波がさざめく。ごく微かな、撫でれば消えてしまいそうな殺意だ。敵がいる。しかし近くではない。リヨールが敵なら、危機であるなら、すでに殺意に躰を動かされているはずだった。


「ミチカ……」


 呟き、ヘイズルはポケットに手を入れた。フィアーキラーの包みはまだそこにあった。使っていないのなら、なぜ傷みは消えた? 使わなければならない、かもしれない。


 最後に一つだけ確かめて、その場で決めよう。

 そう誓い、ヘイズルはリボルバーを抜いた。シリンダーに六発。予備が六発。平たい弾頭はほぼ同型の後継モデルに威力で劣るが、頑なに手に馴染んたこれを腰に差してきた。


 それに、もう戦争は終わる。

 ヘイズルは可能な限り靴音を消し、リヨールの後を追った。聖堂を出る際、振り向きざまに見返すと、夢で見た光景と同じように細部がぼんやりしていた。

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