開眼
リヨールは、聖堂の外、宿舎の反対側にある建物の前で白ローブの信徒と話していた。会話が終わるのを見計らい、壁や柱の影に隠れながら、別れた信徒の後を追った。
教会全体が左右対称に作られているらしく、宿舎とほとんど同じ構造だった。違うのは、多数の信徒が行き帰りしていることか。
ここに至ってヘイズルは隠れるのを諦め、散歩ついでに見て回っていると笑顔を作り続けなくてはならなくなった。
信徒たちはヘイズルの顔を見ると一様に言った。
「おお、ヘイズルさま……何か足りないものはございますか?」
驚くべきことに、リヨールが会話をしていた信徒は一人だけにも関わらず、また命令を与えられた信徒も他の者と一度として話していないにも関わらず、すべての信徒に命令が届いてるようだった。
ヘイズルはそれぞれに「先ほど頼んだばかりです」と答えつつ、さらに追った。そして、ターゲットが地下へと降りていくのを横目で確認すると、廊下を突っ切り、あえて傍の信徒に声をかけた。
「――失礼。少しよろしいですか?」
「おお、ヘイズルさま……何か足りないものはございますか?」
判を押したような回答に違和感が強まった。まさか、白ローブを纏う信徒たちはすべて同一人物なのでは。通常ならありえない、妄想といってもいい可能性に寒気がした。
「こちらではどのような教えを受けるのですか?」
取って付けたような質問だったが、信徒は熱心に答えた。
信仰の中心たる神は、天を自在に操り人に救いをもたらすリヨール・アーミテイジ当人であり、その教えはいずれ世界を一つにまとめ上げるのだという。
ヘイズルはそれらの話に耳を傾けることなく、ただ相槌を打ち続け、やがて追跡対象だった信徒が盆に消毒瓶と包帯を載せて出てくるのを認め、礼を言って会話を終えた。
目的の通路に向かい、信徒たちの視線がないのを確かめ、地下へ伸びる階段を覗いた。光はなく、教会では珍しく鼻につくような薬品臭さを感じた。ヘイズルは近くにあった燭台から蝋燭を一つ抜き取り、階段を降りていった。一段、また一段と、降りるたびに闇は深まり、じっとりと湿気った空気が肌にまとわりついた。
踊り場を挟んで二階分を下った。階段の突き当りに、古ぼけ、文字の消えたプレートのついた扉があった。手をかけ、両目を閉じ、深呼吸した。
――願わくば――。
どちらであってほしいのか。ヘイズルは苦笑する。狂っているのは俺か、ミチカか――。
開いた扉の奥は、食料庫になっていた。
「……俺か」
視界が歪んだ。壁棚に並んでいるのは、黒パンやホールチーズやジャガイモで、どこにも医療品の類は見当たらない。木箱も、樽も、麻袋も、二度も全部あらためたが変わらない。
「じゃあ、あの消毒瓶と包帯はどこからもってきた?」
自分自身に問う。もう、分からない。果たして自分が見たのが本当に消毒瓶だったのか、包帯だったのか、それすらも分からない。そこにある黒パンは何だ? ホールチーズの正体は? 木箱に並ぶワインが消毒瓶だったとでも。ああ、そうだ。きっとそうだ。俺が見間違えただけに違いない。
「ワイン、と、消毒、瓶を……」
ヘイズルは壁にもたれ、ズルズルと座り込んだ。ポケットに手を入れ、フィアーキラーの包みを取り出す。琥珀色の飴玉と、白い錠剤が、重なるように入っていた。
飲みたくない。俺は恐れてなんかいない。恐怖なんて感じない。こいつを飲むと躰を悪くするんだ。頭がおかしくなるんだ。何が真実の姿だ。そんなもの見たくもない。なんで辛い戦場に戻らなくちゃいけない。この教会で、世界が変わるのを見届ければいいじゃないか。
永遠に、穏やかに、安らかに。
「なあ、そうだろう? ヘイズル」
言って、ヘイズルは躰がしたいようにさせた。手は、飴玉と薬を口に放り込んだ。脳天を貫くような苦み。救いとなるはずの飴玉が背景となり、錠剤が舌先を痺れさせた。舌の裏に仕込み、溢れる唾液が溶かし切るのを待つ。
じっと、待つ。
蝋燭の火が、夏の太陽のように輝き、目を焼いた。吹き消すと、残光が暗闇の中に七色の輪を描いた。手の平に目をやると、輪郭がはっきりと見て取れるようになっていた。
漆黒の空間に、敗血症で死んだ新兵の、青黒い顔が顕れた。
「お久しぶりです、パートリッジヴィル伍長」
「――俺はもう曹長らしいぞ、 」
なんと発音したのだろう。自分の言葉なのに名前の音だけが削ぎ落とされていた。
「ハハハ、失礼いたしました。なにぶん死んでから随分、経ってますから、知らなくて」
新兵は壊疽で黒くなった足をこちらに向け、指差した。
「足の調子はどうです? 歩き通しで痛かったはずでしょう」
「……ああ。そうだった」
足に痛みが戻った。皮が剥けたのか、切り傷があるのか、ピリピリと傷んだ。
顔のすぐ横に、前歯が欠け鼻のひん曲がったフロキ伍長が顕れた。
「腕は!? 腕はどう!? 結構、派手に怪我してたよね!?」
「ああ。そうだった」
右腕に強烈な傷みが戻ってきた。代わりに、先ほど負った手の平の傷は傷みを失くした。
頭痛が始まり、躰半分を焼かれたマダム・バートリが顕れた。
「あんた、こんなとこにいていいのかい?」
「ああ。そうだった」
ミチカのところに戻らないと。ヘイズルは壁に手をつき、立ち上がった。
足元に、金色の髪に青い瞳の少年が顕れた。
「お兄様? 忘れてるよ?」
「ホープ……俺は何を忘れるんだ?」
「ミチカさんが言ってたじゃない。真実の姿を見ないと」
「……ああ。そうだった。忘れてたよ。ありがとう、ホープ」
「お兄様のためだもん。気にしないで」
ホープはニコニコしながら手を振り、他の幻影とともに砂のように崩れた。床に積もった色とりどりの幻が、風に吹かれて渦を巻いた。床や、壁や、天井が、古びた壁画のように罅入って、ポロポロと剥がれ落ちた。欠片が幻の砂の渦に巻き込まれ、幻想の膜は消え去った――。
「……だから嫌なんだ、こいつを飲むのは」
今はもう、棚に並んだパンやチーズは黴に塗れ、木箱のワインは空になった薬瓶の山へと姿を変え、打ち捨てられた麻袋に赤黒い染みが浮いていた。
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