聖なる家

 本当にこの道であっているのか。疑問に思っても確かめる術がない。空はすでに白み、背負うミチカの躰は熱さを抜けて冷たくなっていた。靴底が瓦礫の上で滑るたびに足の裏に痛みが走り、ぬるぬると粘った。靴を脱ぐ時が怖い。染み込んだ雨ならいいのだが。


 夜通し聞こえたディーロウの声も今は止んだ。泣き疲れて眠ったのかもしれない。そうであってほしい。背中に感じるミチカの鼓動だけが救いだったが、それも弱まっているような気さえする。弱気になるなと繰り返し、気を抜けば遠くなりそうな意識を保ち足を進める――と。


 オオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォンンンンン……


 と、全身の毛を逆立てるような声が、すぐ近くで聞こえた。


 ――ディーロウめ。起きたか。


 口の中で呟き、ヘイズルはミチカを背負い直した。陽が昇り切る前にと、頭の中の地図にびっしりと引かれた赤線を思い出し、トンネルに入った。朝餉を終えた鼠が足元を駆け抜け、白骨にへばりついていた虫どもが壁や天井を這って逃げた。夥しい数の蝿が放つ、うぁぁぁぁぁぁぁぁん、という羽音を、


 オオオオオオオオォォォォォォォォォォンンンンン……


 と、肌を粟立たせる声が掻き消した。口の中はカラカラに乾いていたが、粘つく唾があふれ出てくるような感覚があった。足元の水音に、一度、ミチカを背負い直して、前を向いた。光があった。鼓動が強くなった気がした。


 気づけば鼻をつく悪臭は消え、痛みもなく、煩わしい声も聞こえなくなっていた。

 暗いトンネルを抜けると、朝日を背負う教会があった。地獄の釜の底を歩いたからか、長いトンネルを抜け生まれ変わったからか、その荘厳な眺めに涙が出そうになった。


「……ついたぞ、ミチカ」


 聞こえていないときだけ名を呼べる。その弱さを告解しよう。そう決めて歩き出す。

 教会は、戦火に包まれた都市にあるとは思えないほど見事な姿をしていた。朝を告げる鐘が厳かに鳴り、敷地の外には草原が。壁から下がる巨大な鳥籠に白い鳩が群れていた。


「おい、ミチカ。この教会のどこが怖かったんだ?」


 返事はないと知りながら訊き、ヘイズルは笑みを浮かべ教会に近づく。


「俺の故郷――といっても、パートリッジヴィルの家だが、代々、懇意にしている教会があるんだ。こことよく似ているよ。初めて見たとき、といっても、継父の家の次にだが、驚かされた。世界にはこんな美しい建物があるのかと。ほらミチカ、見てみろ」


 酷く饒舌になっていた。なぜしたくもない自分の話をしたいのか分からなかった。けれど回りだした舌は止まらなかった。


「俺は初めて告解をしたよ。といっても、洗礼をうけたわけでも、信徒でもなかったけれど。自分の幸せが怖かったのかもしれない。といっても、幸せが何かすら知らなかったけれど。ほら着いたぞ、ミチカ。といっても、君はここが嫌いかもしれないけれど」


 オオオオオオォォォォォォォォンンンン……


 と、清廉な鐘の音が聞こえた。鋳鉄で拵えられた門を押し、数多のハーブを植えた中庭に入ると、すぐに白いローブに身を包む集団がやってきた。リヨールの信徒だろうか。


 なんだ、普通の教会じゃないか。


 とヘイズルは安堵の息をつき、ローブの男たちに話しかけた。


「ヘイズル・パートリッジヴィル曹長です。リヨール・アーミテイジ軍曹に連絡があって参りました。――それと」


 自然と口調を丁寧にしながら、ヘイズルは背負っていたミチカに顔を向けた。


「彼女は怪我をしていて、途中で病にかかったようなんです。診てもらえますか」

「おお……ヘイズル……」


 白ローブの集団の誰かが言った。


「今すぐリヨール様をお呼びするんだ! 救世主が帰還されたと、お伝えするのだ!」


 集団から数人が離れ、教会へと駆け出していった。


「さあ、ヘイズル様。その方をこちらへ……」


 差し出された手に、なぜだかヘイズルは拒否感を覚え、首を左右に振った。


「いえ。診てもらいたいのですが、できれば一緒にいたいのです。どこか空いている寝所があれば、お借りできますか? それと、あれば薬も」

「おお、ヘイズル様……どうぞ、その方をこちらに……」


 白ローブの一人がミチカに触れようとし、ヘイズルは思わず身を捻った。


「――と。失礼。ですが、どうか――」


 頭の片隅に何かが引っかかっている。違和を感じるが、それが何か分からない。言葉を探している内に、ずっしりと腹に沈み込むような気配が、教会の方からやってきた。


「豪胆そらで踊る光輪の梟ですな! ヘイズル様!」

「――は」


 教会の鐘の音によく似た力強い声に、ヘイズルは頓狂な声を発した。今、なんとおっしゃられたのだろうと思う。

 白ローブたちと違い、一人、イェールの軍人が着る緑の礼服に身を包んだ男がいた。


「法眼、ガチガチの滑稽は、りよール・アーみていジと万々歳!」


 名を名乗ったであろうこと以外の全てが理解できなかった。


「ウィンドーペンかなウィンドーペンかな」


 と仕草からして促され、ヘイズルはミチカを背負ったまま教会の聖堂に入った。

 故郷の教会をそっくり再現したかのような美しい堂だった。ステントグラスは忘れ得ぬ神話を語り、見上げるばかりの丸天井には天使が羽を広げる。休日になれば、ずらりと並んだ長椅子に信徒が居並び、リヨール様の託宣に耳を傾けるのだろう。


「おお、これは……」


 口にしてから、白ローブの口調を真似しているように思え、ヘイズルは慌てて口を閉じた。

 リヨールは委細、気にせず拳闘士のように腕を振る。


「アークレイ! アークレイ! 勃興の精神背光に燦々の波!」


 白ローブたちが声を揃えて笑った。何が可笑しいのか、分からなかった。

 愛想笑いを浮かべるヘイズルの瞳を覗き込み、リヨールは言う。


「運命のマサカリが方々を羽ばたくかね? さあ、まちまちに手を叩け?」


 まるで意味が分からない。ヘイズルはどうしても寄ってしまう眉を気にしながら言った。


「申し訳ありません、リヨール様。俺には、貴方のお言葉がよく分からないのです」


 強烈な罪悪感が胸を突いた。


「ほげげ!?」


 と頓狂な声を上げ、リヨールが憐れむような目をこちらに向けた。今すぐにでも伏して謝りたいが、ミチカを背負っていてはできない。白ローブに預ければいいじゃないか思うが、なぜか躰がそれを拒否する。

 リヨールは、ヘイズルの両肩にポンと軽く手を乗せて、


「オオオオォォォォォォォォォォォォォォンンンンンンン……」


 と鐘の音を吐いた。音は頭蓋のなかで反響し、血管を通じて全身へと響き渡った。まるで躰が一個の鐘になったような気分だった。

 ンンッ! と咳払いを一つ入れ、リヨールが言った。


「これでどうでしょう。私の言葉が分かりますかな?」


 ハッとした。リヨール様が合わせてくれたのだと思うと涙が出そうだった。

 ヘイズルは視界が滲みゆくなか頭を垂れた。


「ありがとうございます。今、はっきりと分かるようになりました」

「いやいや、そうなさることはありません。神の言葉というのは、聞き慣れるまで時間がかかるものなのですから」


 リヨールは両の拳を握り固めると、膝でリズムを取りながら毛糸を巻き取るようにグルグルと回しつつ、慈愛に満ちた笑顔になった。


「ささ、背負っている方を我々に。善き哉、善き哉です」


 白ローブに手を差し出され、ヘイズルはホッと息をつく。


「お願いいたします」


 そう口にして、差し伸べられた手から躰を離した。なぜ、そうしてしまったのか、理解できなかった。けれど、


「部屋をお借りできますか? それと、薬を」


 舌は滑らかに回った。


「……残念です。ですが、いいでしょう。おい、部屋に案内して差し上げてくれ」


 言って、リヨールは曖昧な笑みを浮かべた。

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