雨中行軍
雨が降り続いていた。大規模火災のあとには、よくあることだ。
「耳を悪くするまで――や、耳を悪くしてからもですね。ディーロウは良い奴だったんです」
ザクザクと、夜闇に紛れて瓦礫に覆われた道を歩くなか、ミチカがポツポツと話し始めた。
「あんなデカい図体のくせに怖がりなところがあって、でも気は優しくて力持ちっていう、まるで絵本に出てくる巨人です」
ヘイズルはぼんやりと耳を傾けつつ、胸の内の殺意に注意を払う。少しでも膨れ上がれば近くに敵がいる証拠だ。今のところ、迷宮のような路地に殺意を覚えることはない。先導するミチカが、そういう道を選んでくれているのだろう。
「欠点があるとしたら、少し惚れっぽいところくらいで。私はそれで失敗して」
「……失敗?」
痛みと緊張を紛らわせたいのだろうと、ヘイズルは雑談に応じた。自身も、硝子片を引き抜いた右腕が雨に濡れ、疼くように傷んでいた。
「特にどうしたというわけでもないのですが、少し気安く話しすぎたのかもしれません。あとは一人でいることが多かったので、つい」
「惚れられたか」
「そうみたいです。いつだったか、散開する直前に告白されまして。こんなときに何を言い出すのだろうと。こっちは全然そんな気ないですし、側にいたナールにも『今する話か』と笑われて。それが気の毒に思えて、生きて帰ってきたら答えると」
よくある話だ。故郷に手紙を送ったり、戦後の話をしてみたり、束の間、愛の言葉を交わしたり。日常が目の前にちらつき、多くは約束を果たせずに死ぬ。
しかし、ミチカは生きて帰ってきた。当然だが。
「ディーロウは期待していただろうな」
「男はみんなそうですか?」
「俺に男を代表する資格はない。誰にもないが。――それで、どうなった?」
「……険悪にはなりませんでしたが、ディーロウは塞ぎ込んでしまって。しくじったと思いました。部隊が上手く回らなくなったらどうしようと。でも――」
「ミチカ軍曹の責任ではない。結果はどうあれな」
どうしても名だけを呼ぶのは慣れないので、ひとまず軍曹をつけて呼ぶと約束していた。
ミチカは深いため息をついた。
「――そうも言っていられなくて。塞ぎ込んだディーロウにマダム――当時はマダムでもバートリでもありませんでしたが、彼女がつけこんだんです。彼女は当時から好色というか、そういうケがあって、連隊の仲間からも少し距離を置かれていたんです。いま思えば――」
「もう一度だけ言うが、気にすることじゃない。可能性の話で言えば、人間不信になったディーロウと、連隊でも浮いていたマダム・バートリで気が合ったからこそ、夫婦になる道を選んだのかもしれない」
「ですが――」
食い下がろうとするミチカを、風にのってやってきた泣き声が黙らせた。かなり離れたはずだが、まるですぐ後ろにぴったりと付いてきているような気さえした。
「――死んだ者の話より、生きている者の話をしよう」
リヨール・アーミテイジ。妙な宗教を始めたという、ミチカが最も恐れていた男の話を。
――そう言外に尋ねたつもりだったのだが、
「私、好きな選手がいるんですよ」
「――何?」
ミチカの回答は想像とはまるで異なる大暴投だった。
「また野球の話か? それなら、あとでいくらでも――」
「背番号五のセカンドで――」
有無を言わせぬ気配に、ヘイズルは肩を下げながら「それで?」と先を促す。
「名前が面白いんです。
「ドゥ・バッシュ? 本名なのか? それは」
「それは知りません。でも面白いでしょう? 普通はバットを目一杯、長く持つんですが、彼は短く持って振るんです。なのに、たまにとんでもなく遠くに飛ばすんです」
「……ああ、面白いな」
正直、やってみるか見てみるかしなければ、面白さは分かりそうにないが。
ヘイズルは一つ息を入れ、歩きづめで痺れのある太ももを擦った。
「ミチカ軍曹がそこまで恐れるリヨール・アーミテイジというのはどういう男なんだ?」
いささか直接的に過ぎるかと思われた。
しかし、そうでもしないとミチカは答えてくれそうになかった。
ずっと行きたくないと言っていた。バートリ夫妻の邸宅を離れるとき、ミチカはボイラー王国――ガルディアに築かれた前哨基地に戻るべきだと主張した。怪我の治療に、再武装、必要ならバリモア伍長を連れて行くべきだと。
ヘイズルは拒否した。
伏せはしたが、邸宅で少年兵を逃したというのも理由にあった。実際に逃げ延びられたのかはわからない。けれど、もし逃げ延びていれば、フロキやマダム・バートリの死を知り、援軍を引き連れて戻ってくるかもしれない。いや、あの強い少年ならば確実に戻ってくる。ボイラー王国に取って返していてはとてもじゃないが時間が足らない。
そして、もう一つ。
傷を負った状態で長期間、捨ておかれていた死体の上に落ち、泥の中を這ったのだ。汚れた傷を洗う水もない。感染症にかかれば撤退するしかなくなる。
この状況で帰還する基地を選択するなら『近さ』が真っ先に優先される。
その点において、記憶に鮮明に残してある書き込みで真っ赤になった地図を見返すと、道のりではリヨールの土地の方が近かった。ミチカに聞けば事実その通りだと答えた。
だからこそ、すでに済んだ話のはずなのに、未だ渋るミチカに苛立った。
「ミチカ軍曹? リヨールという男は――」
「ドゥ・バッシュはなんというか、守備が泥臭くていいんです。堅実で、華やかさは――」
またか、とヘイズルは舌打ちした。
「その話はあとでちゃんと聞くと言ったろう。今は――」
「はい? 私は何か、話していましたか?」
肩越しに振り向くミチカ。息は荒く、足を止めた拍子によろけさえした。
ヘイズルは、目に流れ込んでいた雨粒を拭った。
「――ミチカ軍曹、どうした。大丈夫か?」
「はい? もちろん私は大丈夫です。えっと、なんですか、兄の話でしたか?」
そうズレた回答をした途端、ミチカの紫の瞳がぐるんと上向き、躰が大きく傾いた。
「ミチカ!?」
咄嗟に躰を抱きとめ、ヘイズルはミチカの額に手を当てた。長く雨に打たれていたにも関わらず、ついて手を引き戻してしまうほど熱くなっていた。目を閉じたまま、うわ言のように兄や親や野球やら、あらゆるものがないまぜになった話を繰り返している。
「すまん。ミチカ軍曹。病気にかかるなら俺の方だと思いこんでいた」
ヘイズルはミチカの躰を抱き寄せ、俯いた。油断していた。自分より頑強に見えていた。脳裏に敗血症で死んだ新兵の幻影が顕れ、泡のように消えた。
細く、長く息を吐き、ヘイズルは顔をあげた。
悔やむ時間すら惜しかった。
「ありがとう。もういいぞ、ミチカ軍曹。しばらく休んでくれ」
そう伝えると、ミチカは安心したように微笑を浮かべ、力なく頷いた。名を素直に呼んでやれない自分が情けなくなった。だが、恥じ入っている暇もない。
――急がなくては。
ヘイズルはミチカを背負い、落ちないようにベルトで固定し、頭の中の地図を頼りに迷宮のような路地を歩き出した。
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