闘争と。
助かったと思うべきなのか、どうか。
以前、今際の際には母やホープの顔を思い出すのだろうと想像したことがあるが、違った。
誰の顔も浮かびやしない。
「――薄情者だな、俺は」
口にした途端、強烈に胸が傷んだ。精神的にではなく、物理的にだ。何度も咳き込みながら腕の中をたしかめると、煤に汚れ、毛先が少し焦げた赤髪があった。
「……ミチカ。無事か?」
返事はない。
「おい、ミチカ!」
呼びかけながら背を叩くと、ミチカがのろのろ顔をあげた。なんとも締まりのない複雑な笑みを浮かべていた。
「……今、私は、どう返事をすればいいのか分からないでいます」
「だろうな。そういう顔をしている」
「バカにしていますか?」
「違う。素直さを褒めている」
言って、またぞろ膨らみ始めた殺意に辟易とした。
「――動けるか? 逃げるぞ」
「逃げるって、どこに。何からです」
ヘイズルは燃え上がる館の、自分たちが飛び出てきた割れ窓を指差した。アーメットヘルムを被った巨人が四つん這いになり、焼かれた肌から怒りを発散する女が機関銃を構えていた。
「ボーレットォォォォォォ!!」
マダム・バートリの絶叫が闇に轟き、砲火が閃く。
「ああもう! しつっこいなあ!」
「急げ!」
飛来した弾丸が耳元を抜け、胴を掠め、足元の死体に当たって爆ぜた。いくら走ったところで食らうのは時間の問題。伏せたところでマダム・バートリの目からは逃れられない。
絶体絶命――かと思われたが、銃撃が急に止んだ。
必死に足を回しながら振り向くと、マダムが機関銃を叩いていた。
「あれは――」
ヘイズルとミチカは顔を見合わせ、声を揃えた。
「焼きついた?」
水冷式重機関銃は銃身を冷却水で覆うことにより驚異的な連続射撃を実現している。もちろん、水が切れたからといってすぐ撃てなくなるわけではないが、銃身が焼ければ射撃精度は下がり、いずれは発砲すらままならなくなる。
「火の中であれだけ撃ち続けていれば当然だろうな」
「ですね。今のうちに撤退しましょう」
「――いや。またとないチャンスだ」
「チャンス? ですが、この距離ではライフルでもないと――」
「これがある」
ヘイズルはストックを付けた新式の拳銃を見せた。中佐に聞いた最大有効射程はおよそ二百メートル。打ち上げになるが、距離は彼我百メートル強。届く。問題があるとしたら、
「俺は利き腕がまともに動かん」
「――!? お怪我をされたのですか!?」
ミチカに問われるまま、ヘイズルは右腕を上げた。前腕に硝子の破片が突き刺さっていた。
「痛みはどうとでもなるが指に力を入れると震えてしまう。――やれるか?」
「やります。銃を貸してください」
決然と答え、ミチカは拳銃を受け取った。タンジェントサイトを百メートルと少しに合わせストックに頬付けし、炎の逆光で黒影となったマダム・バートリを狙う。
「ディーロウはいくら拳銃弾を叩き込んでも元気に歩き回っていました。マダム・バートリだけを狙います。よろしいですか?」
「最低限だが十分でもある。肩を貸すか?」
「お願いします」
ヘイズルが片膝をつき、左手で右耳を保護した。ミチカはグリップエンドを包むように左手を添え、そのまま彼の肩に乗せる。思いがけず肩に触れたからか、微笑していた。息を深く吸い、細く吐いた。腕よりも手、手よりも指と、神経を集中させる。
「……ヴィオラに似ていますね」
「ヴィオラ弾きだったのか?」
「はい。下手くそで、騒がしい子どもだったので」
「道理でな。受け売りで悪いが、ヴィオラは誰よりも自分を理解し、周りを見ている者の楽器だと聞く。軍曹に向いていると思う」
自分を知り、周りを見ている、とミチカは口の中で呟いた。紫の瞳に射線が映る。
照準の先にいる、赤々と燃える窓辺で乱舞する女に、意識を飛ばす。
「死ね、ケダモノめ。悔い嘆きくたばりやがれ」
冷えた怒りを叩きつけ、ミチカは引き金を切った。銃声は火災の音色に紛れて消えた。踊る女の黒影が頭を跳ね上げ静止する。膝から崩れ、大柄な影が抱きとめた。
「ヒット。よくやった」
「一日一善、ですね。ありがとうございます」
ミチカが射撃姿勢を崩し、拳銃からストックを外した。ヘイズルは今になって痛みだした右腕の、肘のすぐ下あたりを握りしめ、顔を歪める。
「――他に武器を持っているか?」
「いえ、ありません」
「ではその銃を使え。褒美――ではないな。詫びの代わりにくれてやる」
「……遠慮なく頂戴させていただきますが――詫びですか?」
ミチカが怪訝そうな顔をし、ストックにしていたホルスターに銃を納める。
ヘイズルは発砲間際に吐かれた呪詛を思い返し、復唱した。
「死ね、獣め。悔い、嘆き、くたばりやがれ――軍曹と呼んだのは悪かったと思う。だが、正直に告白すると――いざ名を呼ぼうとすると気恥ずかしくてかなわない」
ミチカはきょとんと瞬き、やがて困ったように眉を寄せつつ吹き出した。
「違いますよ、ヘイズル。面白い人ですね。さっきのは、そう――祈りの言葉です」
「祈りの言葉? 俺には呪いの言葉に聞こえた」
ヘイズルは熱を帯びた顔を隠し、引き裂いた野戦服の切れ端で肘を縛る。ミチカの噛み殺しきれない笑い声に憮然としながらも、命拾いしたばかりだという現実と、交わした会話の大きすぎる落差に、自らも苦笑した。
『戦争って、意外と牧歌的なんですね』
敗血症で死んだ新兵の顔が瞼の裏に浮かび、
夜闇を引き裂こうかという咆哮に掻き消された。
驚き、顔を向けると、アーメットヘルムを脱ぎ捨てたディーロウが、マダムの亡骸を抱え号泣していた。間に百メートルの闇があろうと、都市の外にいようと聞こえそうな、怨嗟の声。
悔い嘆く獣がこちらに向いた。肩に載せていた機関銃を捨て、マダム・バートリの亡骸から得たであろう銃を、ロクに狙いもせず乱射した。すぐに弾が切れたとみえ、獣は吼えた。
地の果てまで追ってやる――。
そう吼えていた。
全然、牧歌的じゃない。ヘイズルは新兵の幻影に言った。
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