逃走と、

 ヘイズルが階段を駆け上がると、邸宅はすでに火の海と化していた。吹き抜けから燃え崩れた建材がガラガラと降り落ちるさなかでも、激しい銃撃戦の音だけははっきり聞こえた。拳銃やライフルは数を減らしたが、重機関銃の咆哮だけはいつまでも鳴り止まない。焼け付くような大気を肺に取り込み、ヘイズルは叫んだ。


「軍曹! どこだ! どこにいる!? 聞こえたら返事をしろ!」


 返答はない。代わりに、腹の底で殺意が芽生えた。咄嗟に飛び退ると、先ほどまで居た空間に次々と穴が空いた。重機関銃の弾丸であると気づくより早く、ヘイズルは火焔に彩られた階段に飛び込んだ。後を追ってきた銃撃が止み、


「そこで死んでろ! 裏切り者がぁ!」


 代わりに女の怒号が降ってきた。マダム・バートリ。顔を上げても黒煙と炎の這う天井しか見えない。たしか、壁や塹壕の土塊の向こうでも命の火が見えると言ったか。


「命の火……試してみるか」


 ヘイズルは足音を殺して炎下へ歩きつつ、大声で叫んだ。


「軍曹! どこだ! 返事をしてくれ!」


 すぐに銃撃が返ってきた――が。

 天井を貫いてきた弾丸は、先ほどよりも遥かに狙いが甘い。やはり。

 マダム・バートリの目に映る命の人やらは、本物の火焔と重ねれば見分けられないのだ。

 ふつふつと湧き続ける殺意を頼りに駆け上りつつ、ヘイズルはどこかに隠れているであろうミチカに呼びかけた。


「軍曹! 聞け! 炎に隠れろ! 奴らには見分けられない!」


 返ってきたのは、マダム・バートリではなく、ディーロウ・バートリの化け物じみた咆哮だった。悪鬼。あるいは悪魔か。およそ人の声とは思えぬ叫びにヘイズルの殺意が高まる。


 時折、こうしたことはあった。

 敵が強大であればあるほど、近ければ近いほど、そして危機が迫れば迫るほど、全身を支配する殺意が強度を増す。敵を殺せと、勝って俺を寝かせろと、本能が躰を突き動かす。喉が焼けるのにも構わず駆け、駆け、駆けて、ヘイズルは名を呼ぼうと息を吸った。

 脳裏に、フロキ・キャッスルで聞いた、ミチカの告白が蘇る。


『聞いたことがないので、分からなかった』


 潤んだ紫の瞳は、二度と晴れ得ぬ悲しみを湛えていた。

 フロキの言葉が過る。


『軍曹? どの、軍曹ですか?』


 できることなら名を呼んでほしいと言ったか。

 なら、呼んでやろう。

 ヘイズルは唇に湿りをくれ、喉を開けるだけ開いた。。


「ミチカ!! どこだ! 返事をしろ!」


 その声は、館中に響き渡り、そして、


「ここです! ヘイズル!」


 ミチカの返答はすぐ上の階から聞こえた。足音が鳴る。激しい銃声。ヘイズルの傍を銃弾が抜け、足音を追うように傍の部屋へと動いた。無数の穴を穿たれ天井がメリメリと軋んだ。

 ヘイズルは上階の足音を頼りに、火に包まれた扉を蹴りあけた。


「ミチカ! 気をつけろ! 床が――」


 抜ける。というより早く、梁と柱が引き裂け、衝撃とともに天井がそっくり抜け落ちた。巻き上がる埃と吹き込む炎。そこに紛れる、人影が一つ。


「――ゥ、クッ、ツァァァ」


 背を強か打ちつけたのか、床の上で息を絞り出すように背を反らしていた。


「ミチカ!」


 名を呼ぶと、ミチカは床を転がり、そこで止まれとばかりに手を伸ばした。


「ヘイズル。急に呼ないでください……返事しちゃったじゃないですか」


 苦しげに息を吸い、言った。


「逃げてください。すぐに」


 ヘイズルの胸の内で、殺意が極限まで膨れ上がった。敵が来る。すぐそばにいる。降りてくる。バートリ夫妻の殺意が、意志が、はっきりと形をとって未来を見せた。


「ミチカ! 立て!」


 言いつつ、ヘイズルは全速で突っ込んだ。何の真似だとミチカが目を丸くする。時が飴のように溶け、引き伸ばされていく。

 一歩、二歩と、接近しながら、ヘイズルは叫んだ。


「立て! ミチカ! 脱出する!」


 ミチカは困惑しながらも懸命に床を叩き、躰を起こした。視界の隅、崩落した天井の向こうにディーロウと、機関銃を構えるマダムが映った。

 間に合うか。間に合え。何をする気か知らないが――。


「ヘイズル!」


 ミチカは両手を広げた。


「はい、さようなら」


 マダムが言った。重機関銃が火を吹いた。弾丸が殺意を乗せてミチカに迫る。

 しかし、その躰をヘイズルが抱きとめ、駆け抜けていった。


「このまま脱出する!」

「脱出!? どうやって――」

「祈れ!」


 ヘイズルは、ミチカを抱きとめ割れ窓に突っ込んだ。砕けた硝子が夜闇に光った。うんざりする浮遊感。月明かりを呑む深い闇。肌を焼く熱気から逃れたかと思えば、強烈な風が肌を刺した。絶望的な落下。どこまでも、どこまでも墜ちていく。底は未だに見えない。


 せめて巻き込んだ責だけは果たそうと、ヘイズルはミチカの躰を強く抱き締め、自らの躰を下に回した。いつだ。いつ来る。未だ強く残る胸の内の殺意が萎み始めた。いつだ。まだなのか。時間が速度を取り戻していく。


 ドチャッ! と、夜闇に水っぽい衝突音が鳴った。


 予想よりも遥かに鈍い衝撃。背に走る激痛。粘り気のある感触には覚えがある。見れば、周囲は地表よりいくらか低くなっており、ヘイズルたちの体の下には数え切れないほどの死体があった。館で『使用済み』となった人間を、この穴に投げ入れていたのだろう。


 窓から飛び出したヘイズルたちは、偶然にも死体置き場の上に落ちたのだった。

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