質の悪い鬼ごっこ
「もぉぉぉぉぉいいぃぃぃぃかぁぁぁぁい!?」
轟々と燃え盛る館に、マダム・バートリの声が響き渡った。半身をミチカの〈火葬〉に焼かれ、ライフル弾一発を脇腹に受けながら、倒れる気配は微塵もない。中腰になって歩くディーロウの背に隠れ、彼の肩に乗る機関銃を構えている。
「おぉぉぃ! ボーレットォ! 返事をしなね! 待ってやってんだから! 返事がないなら、こっちから行かせてもらうよ! おぉぉぉい!!」
吼えつつ、手にした騎乗鞭を前方に差し向け、配下の兵士を前進させた。すぐにディーロウの剥き出しの背を打ち後に続かせる。幾度もの方向転換で、彼の背には何十条もの鞭で打たれた跡が残っていた。
「ボォォォレェェットォォォォ……この顔の! 落とし前! お前の血でつけさせてもらうかんなぁぁぁ! その綺麗なツラの皮ァ剥いでランプシェイドに作り変えてやるよぉ!」
狂気に満ちた恫喝が煙とともに廊下を走った。
その先の、咄嗟に逃げ込んだ部屋の片隅で、ミチカは緊縛と火傷の跡が残る手首に水で濡らした布を巻きつけていた。正直に思う。少々、考え足らずだった。火球を投げつけ爆炎でマダムたちを追っ払うのには成功したが、縄を切って部屋を脱出するのが精一杯で、あとは逃げ回っていただけだ。
そもそもにして、マダムが血液を貯めた桶と汚れた躰を清めるための水桶を用意していなければ、ミチカは自分の投げた火球で〈火葬〉されているところだった。そういう意味では、運が良かったと言っていいかもしれない。
「……ヘイズルの所為だよねえ」
誰に言うでもなく呟き、ミチカは数時間前に聞かされた言葉を思い返す。
『子殺しは獣の所業だ! 兵士は死人も同じだろうが、断じて獣ではない!』
交渉材料だから死なせられないとかなんとか、そんなのは建前で、あの言葉こそ本心だったのだろう。今まで見て見ぬフリをしてきた自分が恥ずかしい。死人も同じだからと言って、人の本分から外れていいとはならない。まったく、完全に、同意する。
二一一連隊は崩壊した。狂える獣の群れと化した。同じ群れにいるとは思われたくない。
――もしかしたら、とミチカは思う。
先に行方をくらませた連中も同じ思いだったのかもしれない。
「……いやいや、それはない。同じ穴のなんとやらでしょ」
苦笑しつつ、先ほど仕留めたマダムの配下を引きずり寄せた。ライフルは無し。銃剣つきのリボルバーが一丁。残弾は装填済みを含めて十八発。絶望的に足らない。
「……あなたが私を巻き込んだんですよ? 早く助けに来てください、ヘイズル」
ポケットを探り、小さな紙の包みを一つ取り出す。FKⅡ――通称フィアーキラー。配給品のキャンディと一緒に包み直してあった。
ミチカは傷ついた手首を擦り、眉をしかめながらふくらはぎを揉み、諦めの息を吐きながらフィアーキラーの包みを見つめる。飲みたくない。絶望的な状況だと思うが怖くはない。時間を稼げばヘイズルも上がってくるに違いない。でも、痛い。火傷が。縄をかけられていたあちこちが。フロキに撃たれて治された足の幻痛が。
「ボーレットォ! 忘れたか!? どこに隠れようが私の目にゃお見通しなんだよぉ!」
煙とともに流れ込んでくるマダムの声。ミチカは「分かってるっての」と毒づきながら包みを開き、飴玉と一緒に口へ放り込んだ。珈琲が欲しくなるくらい薄っぺらな甘味と、珈琲が恋しくなるくらい強烈な苦味が、口腔内で混ざりあう。
苦味の塊をベロの下に。キャンディは舌先に。痛みが消える。感覚が鋭敏になる。パチパチ爆ぜる火の音や、近づいてくる足音や、弾帯を替えコッキングハンドルを引く音が耳に届く。
「……やば」
呟き、ミチカは床に伏せた。直後、重機関銃が大声で捲し立て、次から次へと壁に穴が穿たれた。砕けた木片や千切れた紙や石の破片やらが降り注ぎ、穴という穴から炎と煙が流れ込んできた。延々と延々と延々と、水冷式でなければ銃身が焼き付いているであろうほど、猛烈な弾雨は続いた。けれど、一発もミチカの躰には当たらない。マダム・バートリには見えているはずなのに。
鞭が背を打ち据える音が聞こえた。さすがに訓練を重ねてきただけあって、重量二十キロを超える重機関銃本体と、膨大な弾薬箱を背負っていても、靴音はほとんど聞こえてこない。
もしも、ミチカがフィアーキラーを服用していなければ、火災によって邸宅の床が変形をきたしていなければ、床の軋みは他の雑音に紛れて聞こえなかっただろう。
ミチカはリボルバーを左手に持ち替え、銃剣を外し、右手に握った。すぐ後ろの部屋。壁の向こう。いつだ。まだか。早くしろ。
――来い!
ミチカは素早く躰を起こし、銃剣を腰だめに構えて壁に突進を仕掛けた。刹那、
「こっちだバァァァァカ!!」
とマダムが叫び、ディーロウが雄叫びながら壁を突き破ってきた。まさに、ミチカの突進する先に。
「知ってたよ」
ズン、と銃剣がディーロウの腹にめり込む、かと思いきや。
「……マジ?」
骨すら浮かぶ躰のくせに、ミチカが全体重をかけて突き入れた刃は爪の先ほども沈み込まずに止まっていた。フッ、と鋭く息を吐き、床を蹴りつけ押し込むが、しかし、やはり刃は沈まない。肩に焼印された分隊章の通り、まるで雄牛のような強靭さだった。
「ボーレットォ、残念だったなあ?」
ディーロウの巨体の背後で、マダムが底冷えする声を発した。ミチカは舌打ちしながらリボルバーを連射した。さしもの雄牛も銃弾の前には血を吐いた。だが致命傷には遠く及ばない。
振り回された腕を屈んで躱し、ミチカは銃剣でディーロウの膝裏を切りつけながら股下に飛び込んだ。待っていたのはマダムの蹴りだ。完全に読まれていた。
硬いブーツのつま先がミチカの腹を抉った。吹き飛ばされ、床を転がり、勢いで立ちリボルバーを構えた。マダムが機関銃を向けようと鞭を振るった。ディーロウが振り向く――が、切られた膝裏が血を飛沫き、片膝が床に落ちた。マダムが、機関銃のハンドルから手を離さなかったがために体勢を崩した。
「残念だったな」
言って、ミチカは引き金を切った。
バカン! と金属質な破裂音が響き――
「――あ?」
ミチカは間の抜けた単音を発した。
なぜか、ディーロウの首が傾いていた。アーメットヘルムに弾丸がめり込んでいる。そのすぐ脇で、マダムが、頭を庇おうとしていた腕を恐々と下ろした。
「……なんだっけ? 『残念だったな』だったかい?」
勝ち誇るかのような笑み。
ミチカはもう一度、引き金を引いた。ハンマーが乾いた音を立てた。
「……次からは利き手で撃つように気をつける」
フッ、とマダムが鼻を鳴らした。ディーロウが低く唸りながら立ち上がり、マダムの目線がそちらに流れた。刹那。ミチカは銃剣をクルリと返し、大きく振りかぶった。そして、
「ィイヨイショオラァッ!」
気合とともに投げつけた。銃剣は糸を引くように直進し、バツン! とマダムの右肩に突き刺さった。衝撃でステップを刻むように回転し、そのまま壁にもたれる。音の聞こえぬディーロウが、足を気にしながら振り向いた。
一拍、二拍、三拍の間があった。
ディーロウの発した憤怒の咆哮を背中で聞きつつ、ミチカはリボルバーを右手に持ち替え割り開くと、リロードしながら廊下に飛び出た。
様子を窺っていた半裸の兵士に鉛玉をくれてやり、横目でマダムを見やる。
「――クッソ……十センチ外に外れた」
仕方がない。今は、下に。
ミチカは、廊下に詰まる兵士の群れに、真っ正面から突っ込んだ。
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