ヘイズルの傷
汚れた包帯を解き、消毒した布で右腕の傷を拭う。激痛と呼ぶに相応しい傷みがあった。ばっくりと開いた傷を前にして、ミチカは縫合糸と針を手に顔をしかめた。
「……私、針仕事なんてしたことありませんよ」
「利き腕じゃなければ自分でやるさ。だが今はミチカの手しかない。心配するな、傷が塞がれば糸は抜くんだ。そういう趣味があるなら名前を縫い付けてくれてもいい」
「……冗談のつもりならまったく笑えないとだけ言っておきます」
ミチカは両目を閉じ、一つ深呼吸をして、言った。
「いきますよ」
「ああ。さっさとやってくれ」
不安にさせたくなくて、そう口にしたが、針が肌に刺さった瞬間、呻き声が漏れた。
「フィアーキラー、飲んだんですよね?」
「ああ。だが、リヨールに消された傷みだけは戻ってきた。今もそうだ」
ヘイズルは血の滲む手の平を見つめた。そこに傷があるのが信じられなかった。
「……ヘイズルも災難ですね」
「――ッ!」
肌に針を打たれる痛苦に顔をしかめつつも、せめて紛らわせようと話しかけてくれているのだと思い、息を整えながら答えた。
「何が災難なんだ?」
「だってそうでしょう。リヨールもディーロウも始末すれば、英雄候補がいなくなります」
「……そんなことか」
一大事だった。しかし、
「ミチカ。君がいるだろう。二年と十ヶ月もいらん。俺が保証してやる」
「私は英雄なんて御免ですよ。普通の、どこにでもいる中途半端な自分に戻りたいです」
「戦場にいると普通が恋しくなる。良くない兆候だ」
「なら、いい兆候を教えて頂けますか? すぐにでも実践しますから」
「……知っていたら、もうやってる」
クフフ、と含み笑いをしつつ、ミチカが糸を切った。
「終わりです。我ながら初めてにしては上出来だと思いますよ」
自画自賛も頷けた。手を握ると肌が突っ張る感覚はあるが、あとは包帯をきつく巻きつけてごまかす。最大でも十二回、指を引ければそれでいい。
「あとは足ですね」
「……何?」
「足を見せてください。入ってきたときから変な靴音がしました」
「……ただの、雨のせいだ。靴が濡れている」
「最悪、壊疽しますよ? 子どもみたいに駄々を捏ねてないでみせてください」
「……敵わんな」
本当に、良くこちらを見ている。ヘイズルは両目を固く閉じ、足を出した。
「……靴も脱がせろと? さっきのは冗談です。子どもじゃないんですから――」
「見たくない」
敗血症で死んだ新兵を思い出すから。
もっと優しい言葉をかけてやるべきだった。苦悩を笑い飛ばそうとする彼の無謀に気づいてやれていれば、結果は違ったかもしれない。この後悔は、一生、背中を追ってくる気がする。
しゅるり、しゅるり、と諦めたように靴紐が解かれていく。つま先と踵に手がかかった。頼むから普段と同じ肌色であれと祈った。
「……ヘイズル」
重い声に、ヘイズルは天へと息をついた。やめてくれ――頼む――。
「鉄板なんて仕込むからですよ?」
「……何?」
瞼を開くと、ミチカの手の中で、ひっくり返された靴から水が滴っていた。
「ずっと濡れてたせいで皮膚がふやけてます。もしかしたら破けるかもしれませんし、布でも巻いておきますか?」
「……ああ、頼む」
安堵の息をつくと、ミチカが穏やかな声音で言った。
「それがヘイズルの悩みですか?」
「……もう隠せないな。そうだ。昔、新兵が――俺の友人が、敗血症で死んだ。直接の原因は自分で足を撃ったからだ。あのとき見た、壊疽で真っ黒になった足が忘れられない」
「忘れてしまうよりずっといいじゃないですか。私は部下の顔も思い出せそうにありません」
「……がっかりしたろう。君らが神だと教えられた男は弱点だらけだ」
「いえ、まったく。なんなら可愛らしく思えてきたくらいです。人間らしくて」
ヘイズルはミチカの肩越しに、窓に映る己の姿を見て、言った。
「――英雄の話だが、バリモア伍長はどうだ。退行は意外と早く治ると聞く」
「本当ですか? 誰に聞いたんです?」
「それこそ忘れてしまった」
都合のいい嘘だから。
ポン、と結び直した靴紐を叩き、ミチカは首を回した。
「――終わりました。それじゃ、始めましょうか」
「ああ。始めよう」
つまらない仕事はさっさと終えて、家に帰ろう。
二人はシーツを引き裂き一本の綱を作った。ベッドの足に結びつけ、それを伝ってヘイズルは庭に降り立つ。部屋の扉は棚と、ベッドで塞いであった。最悪の事態に備えての処置だ。
一度、地上から手を振り、雷雨の下、悪魔が彷徨く街に戻る。
作戦は単純だ。胸に膨らむ殺意を頼りにディーロウを探し当て、攻撃し、連れて帰る。運が良ければリヨールと配下が味方をしてくれるだろう。そうならなければ逃げるだけだ。
もはや二人の手には負えない。せめてボイラー王国に暮らす味方の力がなければ。あるいは中佐を宥めすかして隊を編成するか。
「なんだって俺は国に尽くすんだ」
半ば自棄になって自問する。答えが出ようはずもない。水音を立てながら路地を駆け、殺意が膨らむ方向を目指す。推量する。
ホープのためか。国民のためだろうか。あるいは無惨にも命を落とした戦友のためか。
きっとどれも違う。
結局、戦場にいたのだ。幸福を恐れ、幸福から逃げたのだ。そういう生き物もいるのだ。
獣は幸福を追う。
獣ではない生き物だけが、過酷を追う。
「馬鹿な。ホープが獣だとでも言うのか?」
結局は欺瞞だ。何かに騙され、何かの狂気に呑まれただけだ。その何かとは――、
かつてないほど強まった殺意に、ヘイズルは思索を打ち切った。
どしゃり、どしゃり、と思い足音が聞こえてくる。見知ったディーロウよりも遥かに大きく重い足音。地獄の釜の底ではなんでも起きるな、とヘイズルは唇の片端を吊った。
怨嗟の声を聞いたときから、察していた。
もはや人の姿をしていないだろうと、殺意が舌なめずりをしていた。
ヘイズルは暗闇に潜み、殺意の塊となって、怪物に近づく。
「また、随分と醜い姿になったな」
路地に立ちふさがるその影に、ヘイズルは銃口を向けた。
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