ノーサイド
半ば焼け落ちたバートリ夫妻の邸宅を見上げ、ミチカが言った。
「なんだってこんなところに寄るんです? 掃討戦でもするつもりですか?」
「いや、生き残りがいるとは思えない。寄ったのは確認のためだ」
「確認ですか?」
ミチカが怪訝そうに眉を寄せた。
「ああ。中途半端なことをしたからな。その確認だよ」
「いったい何をやり残したんです? 怒りませんから、はっきり仰ってください」
子どもじゃないんだぞ、とヘイズルは苦笑しながら答えた。
「少年兵を一人、解放した。覚えてるか? フロキ伍長の連れていた捕虜の一人だ」
「ああ……。逃がしたんですか? 敵ですよ?」
「だが子どもでもある。――それに、向こう側かこっち側かが違うだけで、同じ兵士だ」
「同じって……」
「戦争が終われば、同じ兵士だ。ただの人と人だよ」
二人は、焼け跡に足を踏み入れた。目指すべき地下の『飼育部屋』へ続く階段は、幸いにも埋まっていなかった。廊下や階段に転がる遺体は肌が剥けて赤らみ、落ちている銃は熱にやられて動かない。壁にふれると、仄かに熱さを感じた。長雨のおかげで火は消えたようだが、焼け石の中心は冷めきっていないようだ。地上から染み込んだ水が雫となり、ポツン、ポツン、と地下道に水音を立てている。
「……火を入れた竈ですね」
「何?」
「竈です。ほら、ローストビーフやピザを焼く――」
「それは知ってる。ここがそうだったと言いたいのか?」
ヘイズルが目を向けると、ミチカが気まずそうに顔を背けた。
「失言でした。撤回します」
「吐いた言葉は取り消せても、記憶に残った言葉は決して消えない。――だがまあ、ミチカの言うとおりだ。ここは竈も同じだった。少し気が立っていた。許せ」
「いえ、私こそヘイズルの――」
「許せと言われて許せるものでもない。お互い様だな」
ヘイズルはミチカの弁明を遮り、目的の扉に触れた。熱はない。祈るように引き開けた。
「……よかった」
安堵の息が出た。少年の遺体はなかった。フロキの躯も無かったが、少年が服を奪い、どこかに隠したのかもしれない。
「逃げ延びていましたか」
「ああ。これで用は済んだ。帰ろう」
「良かったですね、ヘイズル。あらためて、私はあなたを尊敬します」
褒められるようなことじゃない、とヘイズルは首を振った。手を差し伸べておきながら最後まで見届けなかったのだ。独りよがりの贖罪は偽善よりも醜い。彼は自ら生きる道を選んだのだと慰撫してみても、虚しさ以外は残らない。
重くなった足を無理矢理に動かし、ヘイズルは階段を登った。雲が晴れ、澄み渡る青空が見えた。シャコン、とソウドオフの装填を終える音がした。
「――ヘイズル!」
ミチカが背後から拳銃を突き出し、音の方角へ振り向けた。
「……大丈夫だ、ミチカ」
ヘイズルは音の主を見やり、そう苦笑した。
「この子が、俺が逃がした兵士だ」
あの日に見た少年が、ソウドオフを手に片笑みを浮かべていた。そこらでかき集めたであろう大人ものの服を、袖やら裾やらを折り込んで着込み、首に赤いスカーフを巻いている。
「……近くに隠れていたのか? それとも戻ってきたのか?」
少年は自慢気に笑み、ソウドオフを肩に立て掛けた。踵を返し、ついてこいよと手招いた。
ミチカがひょっこり顔を出して言った。
「……なんでしょう?」
「分からない。とりあず行ってみよう」
「行くんですか!? 罠かもしれませんよ!? ゲリラが待ってて生け捕りに――」
「生け捕りだったら逃げるチャンスもあるだろう。行くぞ。銃なんか下ろせ」
諦めの極地といった目をして、ミチカが銃を下ろした。
待っているのは何なのか。何を見せたいというのだろうか。ヘイズルは、ホープに連れられていった秘密基地を思い出しつつ、少年の後に続いた。
少年が足を止めたのは、かろうじて崩落を免れた階段の先の、倉庫のような部屋だった。抜けた壁の向こうに広がるガルディアの屋根の並びが、雨に洗われ静謐な気配を漂わせていた。
「これを見せたかったのか?」
振り向くと、少年は『なめてんのか?』とばかりに眉を寄せ、黒焦げた部屋の片隅をソウドオフの銃口で指し示す。
「……これは……」「なんです?」
言い淀むヘイズルの肩に顎を乗せ、ミチカも覗いた。険しい顔になった。
「……フィアーキラー」
声が揃った。煤で汚れた棚一杯の、フィアーキラーの空き箱があった。FKⅡの箱だ。よく見れば床にも割れたアンプルが散らばっている。
コツ、コツ、と少年が壁を叩いた。目を向けると、少年が左肩を撫でるような仕草をし、そこにソウドオフの背をあてがった。
「……えーっと……機関銃? ディーロウ?」
ミチカが腰を屈めて目線を合わせながら尋ねると、少年は『それだ』と左の人差し指を突きつけ、すぐに『背筋を伸ばせよ』と上に振った。
ミチカが唇の端を下げながら躰を起こした。
「ディーロウがここにいた? 薬を使ってたのか?」
訊くと、少年が『うん』と頷く。身振り手振りで、薬を飲み、注射を打ち、大きく胸を張り出すようにして、『むん』と頬を膨らませる。
「……まさか、見たのか?」
少年は頬に貯めた息を吐き、二本指を立てて両目を指差し、また胸を張った。
「ディーロウがここでフィアーキラーを使って、化け物になった?」
『うん』
と少年が頷いた。
ヘイズルはミチカと顔を見合わせた。二人の間で、したくもない想像が形となっていく。
妻のマダム・バートリを失い、不安からフィアーキラーに手を伸ばすディーロウ。泣きながら、怨嗟の声を吐きながら、火の消えた邸宅を探し回り、集めた薬をありったけ取り込んでいく。やがて恐怖は失くなり、恨みだけが残る。極限まで鋭敏になった感覚が妄想に形を与え、躰を作り変えていく。
目眩がした。氷のように冷たい汗が背筋を流れ落ちた。
「……リヨールのところにも大量のフィアーキラーがあった。フロキは〈おしゃぶり〉を使えるから、フィアーキラーを必要としなかった……」
少年が、ヘイズルの足をつつき、『大丈夫か』とばかりに顎を小さく振った。
ハッ、と我に返り、ヘイズルは額に浮いた嫌な汗を拭った。
「大丈夫だ。少し目眩が――」
そこで言葉を切り、ため息とともに言った。
「ありがとう。教えてくれて。おかげで、おかげで――なんて言えばいいんだろうな?」
ミチカに顔を向けると、彼女は下唇を噛み、力なく首を振った。
言葉が出ない。目を覆いたい。ただの偶然であってくれと願う自分がいた。
ヘイズルは舌を噛まぬよう慎重に回し、少年に尋ねた。
「なんで教えてくれたんだ? なんで俺が知りたがるだろうと思った?」
『いまさら何を言ってんだ』と言うように苦笑いを浮かべ、少年は身振り手振りで言った。
助けて、くれたろ? 貸し、借り、なしだ。
「借りなんて――」
少年はヘイズルの言葉を遮り、身振りを続ける。
俺、見た。お前、化け物、撃つ。これで、貸し、一つ。
ニッと向けられた片笑みに、ヘイズルは思わず鼻を鳴らしてしまった。勝手にホープの面影を重ねたが、性根の部分はまるで違う。誰に似ているかと言えば、そう――。
「おい。お前、この辺りの地図を持ってるか?」
少年が怪訝な顔をし、頷いた。
「見せてみろ。連邦が拠点に使っている場所を教えてやる」
「ヘイズル!?」
声を荒らげるミチカに、ヘイズルは穏やかに応じた。
「もういいだろう。俺たちは撤退する。残りたい奴は勝手にしろ、だ」
「しかし――!」
「この期に及んで残りたがるような奴を説得できるとは思えない。掃討するにも絶望的な人手不足だ。指揮官を失った兵士は、どうすると思う?」
ヘイズルの推測を察したか、ミチカは瞳を伏せて背を向けた。
「好きになさってください。この場の最高指揮官はヘイズルです」
「すまないな、ミチカ」
言って手を差し出すと、少年は肩を竦めた。
「なんだ? 知りたくないのか?」
問うと、少年はこめかみを二度、指で突いた。
「……もう頭に叩き込んであるか」
『その通り』
とでも言いたげに頷き、人差し指と中指を交差させ、敬礼するように振った。少年はそのままヘイズルの脇をすり抜け部屋を出ていった。足音が遠ざかり、やがて下に回り込み、抜けた壁の向こうに小くとも大きく思える背中が見えた。
少年が肩越しに振り向き、一度、大きく手を振った。
ヘイズルは気安い敬礼で返した。
「……あの子、ヘイズルに似ている気がするんですが……どうですか?」
「それは彼に失礼だ。あの年頃だと……俺は母親にひっついていた」
「ヘイズルが? 想像できませんね。人間、分からないものです。戦争が――」
矢継ぎ早に言葉を重ねようとするミチカの背を擦り、ヘイズルは静かに言った。
「バリモア伍長――心配だな」
「……はい」
ミチカは手の平で両目を覆った。不安に駆られればフィアーキラーに手が伸びる。ボイラー王国こと二一一連隊が最初に確保したホテルは、ミチカも属する突撃小隊が守っていた。恐怖に慣れた彼らは平時フィアーキラーを必要としないが、その分、備蓄も多くなる。
街中に響き渡った怨嗟の声。何度も鳴らされただろうリヨールの鐘の音。そして、砲撃を思い出させる爆発音。ガルディアの深い峡谷が受け止め、足元のホテルに注いだはずだ。
昏い予感が、帰路に沈黙の帳を下ろした。
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