地獄の入り口

 ぼやきそうになるのをこらえ、ヘイズルもバックパックを下ろしガスマスクを外した。鼻の奥を短剣で突き刺すような悪臭が漂っていた。一瞬、ガスを疑った。ガスを吸って肺水腫になり血反吐を吐いた仲間が、ガスは結構いい匂いがするんだと笑っていたのを思い出した。

 ミチカが疲れたように唇の端を吊り、腰のリボルバーを抜いて残弾を確認した。


「ご安心を。人が焼けたときの臭いですよ。私が〈火葬〉したんです」

「〈火葬〉……例の力とやらか。――そういえば、クリメーターと呼ばれていると言ったな」

「そうです。火葬人。ここから先は、私たちがゲリラと呼んでいる伏兵が潜んでいます。いつでも戦えるように準備しておいてください。連中は神出鬼没です」

「……正直、それがよくわからない。本隊は来ないのか?」


 ガルディアは最終防衛線だ。奪い返すのにもっと必死になってもおかしくはない。本隊を投入して一時的にでも撤退させれば、また強固な砦として機能するはずだった。


「なぜ来ないのか……私も何度か中佐に確認しました。返答は曖昧でよく分かりません」

「……曖昧とは?」

「中佐が言うには、突破されたからこそ本隊を送らないのだとか。谷を超えて進軍を続けようとすると陣形が縦長に伸びるので、その方がより少ない戦力で防衛できるのだそうです」

「……だが、住処を奪われた市民はどうする? 首都まで逃げるのか?」

「その市民がゲリラなんですよ、ヘイズル。敵は武器を持った一般市民です」


 瓦礫の底に染み込んでいくような低い声に、思わず喉が鳴った。武器を手にした民間人との戦争行為。まさしく地獄だった。もういつ終わるかもわからない、だが終わらせなくてはならない、戦争の只中に足を踏み入れたのだ。


「行こう。できるだけ安全なルートで」

「そんなものはありませんよ、ヘイズル」


 ニッと乾いた笑みを浮かべて、ミチカはポーチから煙草のパッケージを出した。


「お吸いになられますか? フィアーキラーほどではありませんが少しは落ち着きますよ」

「俺はいらん。君が吸いたいのなら許可するぞ、軍曹」

「ご冗談を。煙草の火の光と煙、臭いで、ゲリラのいい的になってしまいます」


 紫色の瞳は全く笑っていなかった。正気と狂気の狭間。煉獄から地獄に至る門。ミチカはどちらの側にいるのだろうか。煙草をしまうのを見計らい、ヘイズルは小声で尋ねた。


「俺をテストしたのか?」

「汝の神を試すなかれと言うそうです。私は試したりしません」


 ミチカは悪魔のように美しい微笑を顔に貼り付け、弾薬箱を持ち上げた。

 埃が舞い悪臭に満たされた廊下。割れ窓から差し込む幻想的な光。不用意に覗き込むような真似はできないが、一瞬、一瞬、目に映る地獄門の内側は、墓地に似た静謐さを有していた。


「今はちょうど門の真ん中あたりですね。感じませんか? ゲリラの息遣いを」

「……いや、全く。鳥や……犬か鼠か……小さな生き物の気配はあるようだが」

「耳を澄ましてみてください。息遣いが聞こえるはずです。それに……」


 ミチカは細く小さな声で言った。


「コリコリ、コリコリ……肉をついばみ、骨を食む音が聞こえませんか?」

「……もし本当に聞こえているなら、軍曹は少し神経質に――」


 ふいにミチカが足を止め、静かに弾薬箱を下ろした。ヘイズルもそれに倣う。


「……どうした」

「敵です」

「たしかか?」


 ヘイズルはミチカの背中越しに通路の奥を覗く。真っ暗闇に天井から一筋、光が差し込んでいる。白く霞んで光の先は見通せない。気配も感じられない。


 ミチカは唇の前に人差し指を立て、シィー、と静かに息を吐いた。その指で光を指し、すぐに右に曲げる。見えにくいが曲がり角になっていて、その奥にいるというのだ。


 どうする? と目で尋ねながら、ヘイズルは腰に下げた木製ホルスターに手をかける。


 ここは私が、とミチカは自らを指差し、手招くような素振りを見せた。バックパックを背負ったまま、するすると光に向かって前進する。靴底を通してようやく聞こえるくらいの大きさで、ひび割れた石畳が鳴った。


 光差す十字路の中心。左手側は崩れているが、半分ほど埋まった奥の道は無事で、敵は右手側にいるらしい。


 そうと意識して気を巡らすと、ごく微かに空気の淀みがあった。緊張といえばいいか。完全に静止しているつもりでも生き物は常に微動する。自然とそこにあるものは、そこにあるべくしてあるから、空気の流れを妨げない。あるべきでない何かだけが流れを乱す。極小の不自然に気づけるかどうかが、生と死の分かれ道となる。


 たった二週間とはいえ実戦を離れていたヘイズルと、休むことなく戦地を歩き続けてきたミチカとの差だった。彼女は首だけを振り向くと、よく見ておけと自分の両目を指差し、次いで空の右手を指差した。


 例の力とやらか? と、ヘイズルは心のうちで呟きながら小さく首を縦に振った。

 ミチカが両眼を閉じ、瞼の奥から手のひらを見るようにして、一秒半。

 陽炎が立った。

 すでに、熱源があるのかもしれない。だが、冷えた空気は変わらない。本当にそこに炎があるのか俄には分からなかった。ミチカは、そこにボールがあるかのように、手のひらを柔らかく握り、


「私、二塁手セカンドの選手が好きでして」


 呟くように言い、半歩踏み込んだ。手首をしならせるように返して、目には映らない何かを曲がり角の奥に投げ込む。

 途端。


「ひぃぃぃぎゃぁぁぁぁぁあああああああああああああああ!!!!」


 甲高い悲鳴が廊下を劈き、床を満たすほどたっぷりと青白い火炎が延びてきた。

 バタバタと足をもつれさせる靴音が鳴り、取り落した銃が床を打ち、絶叫が続いた。音は一つだけではない。もう一人、耳に残るような叫び声をあげながら、真っ赤に燃える人影が飛び出してきた。


「――ッ!」


 ヘイズルは素早くホルスターのキャップを開き拳銃を抜いた。ミチカが左手を横に広げ射撃を制する。燃える人影は両手を大きく振り回し、踊るように回転し、やがて倒れた。


「……子ども?」


 燃え、徐々に黒ずみ、丸まっていく人影は、十五にも届かない少年と思えた。辺りを明るく照らす人間トーチが火勢を弱め、ぶすぶすと黒い煙を上げつつ消えた。


「……フッ、フフッ、クッ、フククククッ」


 口元を隠し、声を殺してはいるが、ミチカの肩が揺れていた。ぞっとするような光景にヘイズルは唾を飲んだ。我知らず襟元を緩め、抜いたばかりの拳銃を、震える背に向けた。


「……何が可笑しい?」

「フククッ、クフッ……失敬。笑ってはいけないのは分かっているんですが、可笑しくて」

「何がと聞いている」

「だって、そうでしょう」


 ミチカが振り向いた。


「こんなことが起きなくなるようにと志願したのに、自分が加担しているんです」


 眉根は困ったように歪み、しかし口元は笑う、もう嫌だと言わんばかりの顔だった。潤んだ瞳がヘイズルの拳銃を捉える。自嘲なら、と彼は左の手のひらを見せ、拳銃をホルスターに納めた。戦場で自分を滑稽に思ったことは何度もあった。


 戦争を早く終わらせるために――そう願い、辛い訓練に耐え、戦場に立ち、全身全霊で戦った。戦うたびに戦火は拡大し、戦場は増え、兵士が死んだ。自分の存在が戦争を長引かせているのではないかと疑い、だが確かめる術はなく、言われるままに戦う自分が道化に思えた。


「――ヘイズルは、我々を処分しに来たのですか?」


 今にも上ずりそうな掠れた声は、悲しいまでに核心をついていた。

 人ではない、人の見た目をした生き物。

 遠く離れた地で戦い続けてきた戦友を前に、ヘイズルは顔を伏せた。


「似たようなものだ。詳しく話してやりたいが長くなる。先に案内をしてくれ」

「もちろんです、ヘイズル」


 ミチカは手の甲で目元を拭った。手袋についた煤で頬が薄っすらと黒ずんだ。


「命令とあらば、どこにでもお連れいたしますし、お供しますよ」


 幸いにも、新しい悲鳴は聞かずに済んだ。

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