無人地帯の記憶
いつ、どこの戦場だっただろうか。
『戦争って、意外と牧歌的なんですね』
塹壕の底で、来たばかりの新兵が、気遣わしげな薄笑いを浮かべながら言った。
足を踏み入れれば生きては帰れないと言われる中立の土地。塹壕と塹壕の狭間。
なるほど、雲ひとつない空を見上げていれば、穴蔵から聞こえてくるうめき声も羊飼いの高鼾になる。遠く向こうの堀から感じる不気味な息遣いは草原に潜む狼か。彼岸と此岸の間に横たわる無数の躯は薄汚れた羊だと思おう。
青空に鳶が舞っている。笛の音のような声を上げながら旋回する。獲物を狙っている。きっとまだ生きている。空の上で、死にぞこないが抵抗を諦めるのを待っているのだ。
もう十分生きただろう、と歌いかけながら。
鳶が素早く反転、降下して、泥だらけの兵士の肩に止まった。瞬間、鳶の躰が赤い霧となって吹き飛び、茶色い羽毛が散った。遅れて銃声。ひらひら落ちる羽の向きから射手は彼岸の兵士だと分かる。鳶に狙われた兵士は虫の息らしいが、しかし、どちらの兵士か分からない。
ヘイズルは、ホッとしたのを覚えている。
塹壕から身を乗り出し、鳶が狙った兵士にライフルを向け、引き金を切った。兵士の躰が一度おおきく揺れ、動かなくなった。遠くに銃声があった。どこか遠くを狙っていた。ヘイズルは明後日の空を撃った。ボルトを引き、押し込み、もう一度。礼砲らしき音色が返ってきた。
塹壕の底に引っ込むと、新兵が薄笑いを引きつらせていた。
「 」
なんと言ったか思い出せない。新兵は三日後に傷病兵になった。自分で自分の足を撃ったのだった。傷に汚れた泥が入り込み、敗血症に苦しんで死んだ。
ふいに蘇った古い記憶を首を振って払い、ヘイズルの意識が今の戦場に戻る。
可能な限り美化していえば、不毛の荒野といったところだろうか。
飾りっ気なしに事実を並べるなら、気が遠くなるほど撃ち込まれた砲弾により地形そのものを大きく変えられた泥土の平野に、引き裂かれた鉄条網の残骸が散らばり、縦横無尽に掘られた塹壕があった。
もちろん、激戦によって千切れ飛んだ兵士たちの四肢の一部やら、焼け焦げた装備やら、ところどころの穴から伸びる赤や黄色の煙もある。
先導するミチカが大きく息を吐き出し、補給物資を詰め込んだ、重量およそ三十キロのバックパックを背負い直した。振り向いた顔に、額に、汗が浮かんでいた。
「ヘイズル、ここから先しばらくはガスマスクを外さないでください」
言って、左手の弾薬箱を下ろし、腰に下げていたガスマスクを嫌そうに被る。ゴムの袋に丸いレンズを付けたような代物だ。完璧に装着できていれば数時間は毒ガスに耐えられるとされていた。代わりに呼吸はしにくく、酷く蒸れ、兵士たちは着用のたびに嘆いた。
――なにしろ、そうまでして対抗しようとするガスは、自軍が撃ち込んでくるのだ。
「……最後にここを突破してから随分、経っていると聞いたが……まだ残ってるのか?」
「念の為ですよ、ヘイズル。あちこちの変な色の煙が見えませんか?」
マスクで覆われ、声はくぐもっていた。
「塹壕内部に、人ひとりがやっと通れるくらいのトンネルがいくつもあるんです。いちいち人を送り込んで調べるんじゃ埒が開かないので……」
「流し込めるだけのガスを流し込んだか」
ヘイズルはため息交じりにマスクをつけた。息苦しさに奇妙な郷愁を感じた。
「何度も雨が降りましたし、危険そうな横穴は爆破して埋めたんですが――土に染み込んでいるのか土の間を抜けるのか……こうして煙が立ち続けています」
弾薬箱の重みが手の平に食い込む。早くもうっすら曇り始めたレンズ越しに見る戦場は、これまでに見たどんな戦場よりも静かだった。
同時に、どこよりも重苦しい虚しさを抱えていた。
前線基地から見た風景とは異なり、ミチカが地獄の門と称した谷は遠かった。攻略された塹壕を通り抜ける長い長い間、ずっと門に見張られているような気がした。わざわざ重い荷物を背負い、重機関銃の前に身を晒し、どうぞ撃ってくださいと散歩している気分だった。
肩や手に食い込む重みや、ガスマスクの息苦しさ、曇ったレンズ越しに見る両軍兵士たちの遺骸が、ミチカの歩みを無造作すぎるように思わせて、ヘイズルに口を開かせた。
「――軍曹。隠れないでいいのか? この道で合っているのか?」
「臆病風に吹かれましたか、ヘイズル」
挑戦的な台詞だが、声色に挑発的な意図は感じられない。
「軍曹は慣れているかもしれないが、俺はここを歩くのは初めてだ」
「存じています。ご安心ください。私は何度もここを行き帰りしています。都度、道は変えるようにしていますが、このあたりで死んだ同行者は三桁以下です」
「……まったく安心できないのは気のせいか?」
「そうですね。ヘイズルの気のせいです。私にすれば家の裏庭を歩いていようなものです」
ミチカはすぐ傍の防御陣地の残骸に入るよう誘導し、直前、はたと振り向いた。
「茂みには銃をもった連中がわんさと隠れていますけどね」
丸いレンズの奥で紫色の瞳が笑っていた。狂気の一端と見てもいいかもしれない。
長く戦場にいると、恐怖への感度が真っ先に壊れる。普通は壊れる前に死ぬ。死ななければ後退するか、あるいは運良く前進を経験する。
どちらにも当てはまれずにいると、銃や野砲の音で昼食の時間を把握するようになる。弾丸が顔の横を通り過ぎても気にならなくなり、死と前進の日が近づく。早くそうなれるように促す秘密兵器もあった。
塹壕に潜り込み、いつ崩落してもおかしくなさそうな細いトンネルを抜け、朽ちかけた建物の内側に出たところで、ミチカがガスマスクを外した。バックパックも一度下ろし、汗まみれになった顔を手の甲で拭い、額に張りつく赤い髪をかき上げる。
「ここが、だいたい折返し地点になります。もうマスクを外しても大丈夫ですよ。素面がキツイようでしたらフィアーキラーもありますが……どうされます?」
左の腰につけた小さなポーチを擦る手を見て、ヘイズルは首を左右に振った。
フィアーキラー――長く苦しい塹壕戦を乗り切るために生み出された秘密兵器だ。新兵の頃なら青い顔を晒して手を伸ばしたが、今のヘイズルには必要ない。
塹壕を突破するための戦術を編み出したものの、実行するには火力の他にも克服しなくてはならない要素があった。
恐怖だ。
降り注ぐ弾雨の下を昼も夜もなく進軍する。通常の神経では成し得ない
最初に投入されたFKⅠは実際に驚くべき効果を上げた。しかし、ガラスのアンプルと注射器のセットは戦地で破損したりと問題も多く、すぐに舌下服用するFKⅡへと更新された。
これがいま兵士たちの間でフィアーキラーと呼ばれている薬だ。
フィアーキラー自体は強烈な苦味をもつため、手慣れた者は戦闘糧食に含まれる氷砂糖や補給品として紛れ込ませたキャンディーと一緒に口に含んだ。薬効は一分と経たずに現れ、世界を一段と明るくし、口中で混ざりあう苦味と甘味が肉体から竦みを取り払った。
後にFKⅢという注射器をさらに小さくしたような薬剤も提供されるようになったが、どちらかといえばFKⅡの方が好まれていた。
ヘイズルはいずれも使用したことがあるが、新兵の頃を除けば、痛みをこらえるためであり恐怖を紛らわすためではなかった。意識に奇妙な作用をするのが好きになれなかったのだ。戦場で積極的に恐怖を忘れようという発想自体が、我慢ならなかったのだ。
「戦闘も戦争も、怖いのが普通だ。捨てたら人でなくなる」
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