ティータイム

 長い長い塹壕の跡地を抜け、ガスマスクを外してみると、前線基地には歩哨すら立っていなかった。ほんの数日の間に何が起きたというのか基地内の喧騒すら消え失せている。

 ヘイズルの脳裏に、おどけるように片眉をあげ妖しげな笑みを浮かべる中佐が過ぎった。


『情報源への口止めと、情報・痕跡の抹消は、我々の最も得意とする分野だ』


 消されたのか、消えたのか、どちらにしてもロクでもないなと思いつつ、ヘイズルは基地に入った。人気がない。殺意も湧かない。中庭に人が立っていた。

 青い軍服を身に纏い、官房を小脇に抱え、片手を腰に空を見る長い黒髪の女――中佐だ。

 中佐は足音に気づいて振り向くと、妖しげな笑みを浮かべた。


「よくぞ戻った、ヘイズルくん! ミチカくんも! 情報部の連中から話をもらってすぐに飛んできたよ! たった二人とは残念だが、頼んだ仕事は全うしてくれたのかな?」

「……ええ。ガルディアの街で戦争行為を続けていた二一一連隊の分隊長を四人、フロキ、ディーロウ、マダム・バートリ、それにリヨール・アーミテイジ。全員、死亡を確認しました」

「死亡を確認した」高くもなく低くもなく鼻を鳴らし、破顔した。「死亡を確認したか! いい言い回しだ! 死亡を確認! 死亡を確認か!」

「何が可笑しいのですか。あなたの部下が大勢、死んだんですよ?」

「うん。部下が死んだときは笑うことにしている。そうでもしないと傷つくからな」


 ハハハ! と声を上げて笑い、中佐は笑みをそのままにミチカを見やった。


「ミチカくんが戻ってくれて本当に良かった。やはり二一一連隊で最も優秀なのは君だ!」

「……お褒めに預かり光栄です――と、言うとでも?」

「思っていないとも! だからわざわざ訊いたんだ! 確認という奴だな!」


 ヘイズルは首を振り、リボルバーを向けた。


「お聞きしたいことがあります」

「――フィアーキラーのことかな?」


 中佐は自身を狙う銃口には見向きもせず聞き返した。


「……ご存知だったんですか」

「当然だな。採用を決めたのは私ではないが、私の部隊で使っていたんだ。どんな薬か把握していないわけがない。そうだろう?」

「では、あれを過剰使用すると化け物になることも?」

「……その説明を始めると少し長くなる。話してもいいが――」


 中佐は懐から懐中時計を出し、見つめて言った。


「先に紅茶の時間だ。眺めのいい場所を見つけたんだ。そこに――」

「今すぐに話してもらう!」


 ヘイズルは語気を強め、引き金に指をかけた。

 中佐が呆気に取られたように瞬き、ニィ、と唇の片端を吊った。


「先に紅茶の時間だと言ったろう。もう部下が用意をすませてくれている」

「俺は本気ですよ、中佐」

「私も本気だよ、ヘイズルくん」

「……言わないなら、今この場であなたを撃ちます」

「撃ちたければ撃つといい。私は先に紅茶の時間だと言った。紅茶の時間だ。さあ撃て。撃つまで言おうか? 紅茶の時間だ。紅茶の時間だ。紅茶の時間だ! 紅茶の時間だ!!」


 一切、動じないその姿に気圧され、ヘイズルの額に汗が浮かんだ。両手に構え直し、肩を入れてみせた。中佐は、グッと前のめりになり、歩き、銃口に額をつけた。


「紅茶の時間だよ、ヘイズルくん」

「クソッ!」


 銃口を外すと、中佐は満足げに躰を起こしミチカとの間をすり抜け、肩越しに手招いた。


「こっちだ。ヘイズルくん、ミチカくん。カップは――まあ人数分はあるさ」


 二人が続こうとすると、急にピタリと足を止め、また振り向いた。


「そうだ、ヘイズルくん。距離を取ってリボルバーで脅すなら先にハンマーを上げたまえ」


 天を仰ぐヘイズルに、ミチカが言った。


「相変わらずというかなんというか……私も銃を――」

「いや。これは俺が決めたことだ。そうさせるくらいなら銃を借りる」


 ふいに中佐が首だけを振り向かせた。


「おや、本当に弾が入っていなかったのか。やはり君は度胸があるな」


 言って、高らかに笑いながら、ついてこい、と指招きした。

 ヘイズルはミチカと顔を見合わせ、どちらともなく首を左右に振り、後を追った。

 なんということはない。見晴らしのいい場所とは、砦の屋上だった。視界を妨げる塀は不自然に打ち崩され、遠く霞むガルティア峡谷の入り口を見るようにして円卓と椅子が用意してあった。用意した人間の姿はない。

 中佐は青い縁模様の入ったカップに紅茶を注いで回り、円卓中央に立つ三段のケーキスタンドを手で示した。


「軽食でもケーキでも好きにやってくれ。どれもまあ、美味しくはないが紅茶が引き立つ」


 席につき、ヘイズルはカップで湯気を立てる茶を見つめながら訊いた。


「フィアーキラーとは、あの化け物とは何なのですか」

「……私はここから見る風景が好きだ。美しいと思う」


 眉を寄せるヘイズルを、ミチカが伏し目がちに見つめながら紅茶をすすった。


「私は美しいと思ったことはありません。あれは――」

「地獄の門だったか」


 中佐がミチカの言葉尻を引き取った。


「だが私は美しいと思う。地獄の門というのは、傍から見ている分には美しく見えるのだろうな」


 ケーキスタンド最上段の小さなケーキをつまみ、一口食べて言った。


「フィアーキラーを作ったのは私じゃない。使い続ければ化け物になるとも知らなかった。これは本当だ。あれを作った科学者は――実験していた男も含め、もうこの世にいないよ」

「嘘だ。化け物になると知っていた」

「後になっての話だよ。ヘイズルくんには信じられないだろうが、私はこれでも部下を愛しているんだ。大事な、大事な、磨きに磨いた駒だからね」


 中佐は峡谷を見つめたまま紅茶を口に運んだ。


「多重盲検法というらしい。そもそも薬の開発自体は戦前から始まっていて、実験をしていた人間は、薬の正しい効用すら知らなかった。私も同じだ。私の仕事は実験部隊をつくることで、薬は優先的に回されてきたに過ぎない。なぜそんなやり方をしたか。正しい知見を得て、戦争を早く終わらせるために。そこに悪意はない。能力の発現と薬の関係が見えてきてからは事情が異なるがね」


 カップの底がソーサーを叩いた。


「――さっきも言ったが、私にとって二一一連隊は大事な駒だよ。私みずから壊すような真似はしない。薬の使用によって超常の力を自在に引き出せないか。そう思って止めなかっただけなんだよ。悪意はない。むしろ、まじりっ気のない善意さ。すべて偶然が描いた悲劇だね」


 ヘイズルはカップを持ち上げ、そのまま下ろした。飲む気になれなかった。


「――俺たちもあんな姿になるのですか?」

「その点については私も興味がある」


 そう中佐が言った瞬間、ミチカの瞳が鋭く光った。


「睨まないでくれ、ミチカくん。異形化の厳密な条件は私も知らないのだよ。――フィアーキラーの過剰摂取が条件の一つなのは間違いない。これは記録からも明らかになっている」

「では、他にも条件がある?」

「それは分からない。分からないが――」


 中佐は人差し指を立てて言った。


「一つ。奇妙な偶然がある。話せば、私のように狂人と疑われる偶然がね」

「……何ですって? 中佐が、狂人と……?」


 怪訝そうに眉を寄せるヘイズルとミチカに微笑みかけ、中佐は手指を絡めて円卓においた。


「そう。これは資料からも明らかな、まったく厳然たる事実なのだが――私が編成を考慮した二一一連隊には、人ならざる生き物が紛れ込んでいた」

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