33:後で土下座するから

 春の終わり。

 街は薄っすらと夏の気配を漂わせ始め、通学路には街路樹の青々とした葉を揺らす様に風が吹いていた。俺はそんな初夏の風に追いつき、そして追い越さんとばかりに立ち漕ぎで自転車のペダルを漕いでいく。


 如何にまだ夏の序の口である立夏の季節とはいえ、これだけ必死に漕いでいれば身体も火照ってくるというもので、俺の背中はじっとりとした汗で滲みだし、額からは一滴の汗が視界を邪魔する様に垂れてきた。


 ……鬱陶しい。

 汗で蒸れた制服の中は非常に不快で、いつもならすぐにでもタオルで汗を拭う所だが、今は『そんなことなんてどうでもいい』とバッサリ切り捨て、俺はさらにペダルを漕ぐペースを速めた。


 息が切れる。いくら大きく息を吸い込んでも、全然足りない。

 でも、止まる訳にはいかない。止まっちゃいけない。


 余計なことは考えず、今はただ全力で彼女の元へ。

 俺はその事しか頭になかった。


「白坂っ……!」


 程なくして木もれ日荘に帰ってくると、俺は逸る気持ちを抑えきれず乗って帰ってきた自転車をその場で投げ出した。当然の如く自転車は倒れ、背後からはその音が聞こえてきたが、俺はそんなことはお構いなしに白坂の部屋のインターホンを鳴らす。


 焦る気持ちとは反対に『ピンポーン』とやけにのんびり聞こえるインターホンの音にやきもきさせられながら待っていると、数秒の後、ガチャリとドアが開いた。


 俺は密かに『もしかしたら、白坂は俺が行っても会ってくれないのでは?』と心配していたので、意外にもすんなり開いたドアに安心した。だがそれも一瞬のことで、ドアの向こうから姿を現した彼女の顔色と恰好を見て、先ほどまでとは異なる意味で心配になった。


「けほっ…………どちら様ですか?」


 咳き込みながらそんな風に来訪者が誰か誰何してきた白坂の顔は赤かった。しかし、別に照れたり恥ずかしがったりしている訳ではない。単純に彼女の体温が高く、顔に熱を持っているから紅潮して見えるだけだ。

 その証拠に彼女の額には四角い冷却シートが貼られており、俺がやって来るまで寝ていたことがよく分かるモコモコのパジャマに身を包んでいた。


 つまり、端的にいう所の風邪。

 俺は遅ればせながらに担任の教師が言っていた彼女の欠席の理由が正しかったことを知り、驚きに目を見開いた。


「……どうしてあなたがここに居るんですか? 今はまだ学校のはずじゃ……」


 俺が驚いて何も言えないでいると、来訪者が俺だと気づいた白坂がそんな風に尋ねてくる。彼女もまた俺がここに居ることに驚いている様子で、熱に浮かされていつもより潤んで見える瞳をパチクリさせていた。


「君が心配で抜け出してきた」

「……はい?」

「だから、君が心配で抜け出してきたんだ」


 あまり会話を長引かせるのも悪いと思い端的にここに居る訳を伝えると、白坂はほんのりと眉を寄せ、困惑の表情を作った。


「……どうしてですか?」

「昨日、君の父親から連絡が来てからの君の様子がおかしかったからな。何かあったんじゃないかって心配で、君に話を聞きに来たんだ。……まあでも、今は別の意味で心配になってるんだけど」

「……ご心配ありがとうございます。ですが、私は一人で大丈夫なので、お気遣いいただかなくて結構です。だから……けほっ……今すぐ、学校へ戻ってください。今なら五限目は無理でも、六限目の授業には間に合うはずですから」

「バカ言うな。こんな状態の君を残していけるわけないだろ」


 自分では『大丈夫だ』と宣う白坂だったが、見た目には全く大丈夫では無かった。

 話の合間合間で咳き込んでいるし、顔は熟れたトマトの様に赤かった。ついでに言えば足元も覚束ないらしく、彼女はドアに寄りかかるようにして身体の支えにしていた。

 ……とてもではないが、彼女の言葉を信じて学校へ戻る気にはなれなかった。


「待ってろ。急いでコンビニ行って色々買ってくるから、君は大人しく寝ててくれ」


 インターホンを押して玄関まで出てこさせた俺が言うことではないが、こんな所で立ち話なんてさせるべきではなく、今すぐベッドに戻して寝させた方がいい。

 そう判断した俺は彼女にベッドに戻るよう告げて最寄りのコンビニへ行こうとしたのだが、最初の一歩目を踏みだす前に白坂に腕を掴まれて止められる。


「本当に、大丈夫…………ですから。私の……ことは……気にしないで……くださ――」

「おいっ、白坂!」


 最後まで言い切ることもなくその場に崩れ落ちていく白坂を、俺は慌てて受け止めた。

 密着した彼女からはふわりと甘い香りがしたが、そんなことを意識するよりもまず彼女の高過ぎる体温が腕越しに伝わってきて、俺は眉をしかめた。


「バカ野郎、全然大丈夫じゃないじゃないかよ……」


 俺はぽつりと呟いたが、気を失った彼女からは当然返事がなかった。意識が無く、まるで精巧な人形の様な彼女はぐったりとしていて、体中から力が抜けていた。


 そんな彼女を抱き留めつつ、俺は思考を巡らせる。


 今すぐ彼女をベッドまで運ぶべき、それは間違いないだろう。

 でも、どこに運ぶ? 彼女の部屋が一番いいのだろうが、男の俺が彼女に無断で入るのは流石に躊躇われる。


 では、『俺の部屋は?』と言われると、それもまた微妙だ。

 よく来ているとはいえ、起きた時に俺の部屋だと驚くかもしれないし、男のベッドで寝るというのは彼女も嫌がるだろう。


 どっちにしろ微妙であり、かといって他の場所と言われてもすぐには思い浮かばなかった。

 ならばどうしたものかと頭を悩ませていると、ふとつい先ほど言われた正人の言葉を思い出した。


『もし迷惑をかけちまったなら、全部終わった後で謝ればいいんだよ』


 やや無責任とも言える奴の言葉。だが、そんな言葉に俺の躊躇いは吹き飛ばされた。


「……すまん白坂、後で土下座するから許してくれ」


 意識が無いので聞こえていないとは思うが、己の罪悪感から一応そんな風に一声断って、俺は彼女の背中と膝の下に腕を回して彼女の身体を抱き上げた。

 華奢で小さなその身体は、流石に羽のようとは言えなかったが、それでも俺でも少し余裕があるくらい十分に軽くて、俺はまた違う意味で心配させられた。


 俺は彼女を抱き上げたまま目の前の開いていたドアの隙間に身を滑り込ませると、気を失った彼女が目を覚まさない様に、なるべく静かにドアを閉めた。


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