第二章:
39:芒種の薫風は鼠黐の香りと騒動を運ぶ。
開け放たれた教室の窓から一陣の風が吹く。
風は衣替えが終わって半袖へとシフトした俺にあたり、座っているだけでもじっとりと汗が滲んできていた体を制服の隙間から少しだけ冷やしてくれた。
その際、ふと鼻に感じたのは何か葉っぱの様な緑の香り。
どうやら季節は春を過ぎて夏に移ろいつつあり、芒種の薫風がどこからか若葉の香りを運んできた様だった。
俺はそれを感じつつ、眠気を押さえる為に腕を伸ばしながら呟く。
「何事もなくて、平和だなぁ……」
そう、何も無かった。
綾乃と腹を割った話し合いをしたあの日から既に一月ほど経っているが、俺の学生生活にこれといった変化は無い。
綾乃の親父さんに提案された新しい住居に引っ越してもいないし、これからそちらへ引っ越す予定もない。俺は今まで通り木もれ日荘に住み続け、毎日綾乃の作る美味いご飯を頂いている。
まるっきりあの日以前と変わらない生活。俺が望んで、彼女が受け入れてくれた日常に浸っている。そのことに俺は大変満足していて不満など欠片もない……のだが、それが少しだけ不気味でもあった。
てっきり俺は契約書を封筒ごと破いてしまったことで綾乃の親父さんから何か言われるのではないかと思っていたのだが、何も音沙汰がないのだ。
この部屋を賃貸契約する際、あちらには俺の部屋や連絡先を知られているのだから、直接交渉の為に部屋を訪問されたり、手紙が送られてきたりしそうなものだが、特にそういったことも無く、未だに電話の一本すらかかってきていない。
『もしや、俺に封筒を送ったことを忘れているのでは?』とも思ったのだが、別にそういう訳でも無いらしい。
綾乃によると、三日前に彼女の方には『まだ俺に封筒を渡していないのか?』との旨の連絡があって、その時に綾乃ははっきりと俺が引っ越しを拒否したことを伝えたらしいのだ。しかし、親父さんからの返事は『……そうか』の一言だけで終わったらしく、何とも奇妙でちょっと怖い。
という訳で、俺は維持された平和に満足しつつも、内心では首を傾げ続けているのだった。
「そういえば、今日は午後に体育祭の種目決めがあるらしいぞ」
正人からそう言われたのはそんな時だ。
俺は伸びを止めて奴の方へと視線を向けた。
「へ? 体育祭って秋にやるもんじゃないのか?」
「何言ってんだよ。夏が終わったら三年生は大学受験に向けて勉強ばっかりなんだから、そんな時にやれるわけないだろ」
「ああ、確かに」
日本の祝日にスポーツの日とかあるし、スポーツの秋なんて言葉もあるから何となく秋ごろにあるイメージがあったけど、それだと来年受験する三年生の先輩方にとっては参加し辛いものになってしまう。
特に一応うちの高校は進学校を名乗っているし、三年生全員『受験勉強しなきゃいけないから体育祭はお休みします』等ということになっては、ただただ悲しい思い出を量産するだけである。
「……あれ、じゃあ文化祭ももうすぐやるのか?」
「そんな訳ないだろ。文化祭は秋にやるもんだ」
「そうなのか? 忙しいのは同じだろうに、体育祭との違いは何なんだろうな?」
「そりゃあお前、文化祭を夏休み前にやったら、一年のイベントスケジュール的におかしくなるだろ? 夏に仲良くなった学生カップルがさらに親密になるイベント、それが文化祭だ!」
「小説の都合を聞いてんじゃねえよ」
あくまで自称小説家気質が抜けない正人に向けて、俺は呆れた様に溜息を吐いた。
奴の方もそんな俺を何故突っ込まれたのか不思議そうな目で見ていたが、すぐに止めて少し警戒する様に周囲を見回すとちょいちょいと俺を手招きしてきた。素直に俺が顔を寄せると俺達にしか聞こえない声で話しだす。
「まあ、話を戻すけどよ。午後の種目決め、頑張れよ?」
「はあ? 何を頑張れって言うんだよ」
「くっそ、察しが悪いなぁ! あの人と一緒の競技に出るために、何とか頑張れって言ってんだよ!」
少しじれったそうに言う正人の言葉に、俺はようやく奴が言いたいことを理解した。
俺があの人――つまり、綾乃と一緒の競技に出たいなら、何とかしてその座を勝ち取れ、そういうことらしい。
確かに彼女の人気ぶりを考えると、彼女と同じ競技にしようと男子達が群がり倍率が相当なものになるであろうことは想像に容易い。
現に、周囲のクラスメイト達を見やれば、皆午後の種目決めを意識しているのかチラチラと綾乃の方へ視線が向かっているし、かと思えば周りの男子同士で視線で牽制し合っている。教室の中はいつものほのぼのとした空気が無く、どことなく殺伐とした空気が流れている、そんな気がした。
しかしそんなこと、俺にとっては全て関係の無いことである。
「別に、俺は頑張らないよ」
「どうしてだ? あの人と一緒に出たくないのか?」
俺の答えに何故か不満げな正人。
そりゃあ俺だって出たいか出たくないかで言えば、一緒に出たいに決まっている。
俺だって健全な男子高校生。綾乃の様な可愛い女子と一緒にリレーに出てバトンを渡す際につい手が触れ合ったり、二人三脚で不可抗力に身体が密着してしまったりということに夢を感じない訳ではない。
でも、そんな事をすれば男子達から槍玉に挙げられるのは目に見えているし、今後の学生生活が息苦しくなるだろう。流石に一時の幸運を対価にそんな目に遭うのは避けたかった。
「……俺は何か人気が無くて楽そうな種目に適当に出るよ」
「お前、それで本当にいいのか?」
「良いも何も、俺は別に楽できればそれでいいよ」
俺が少し残念な気持ちを抑え込んでそう言うと、正人は何故か俺より残念そうに『そうか』と肩を落とすのだった。
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