35:木もれ日荘の斜陽
「あまり面白い話でもありませんが、それでも聞いて頂けますか?」
色々と事情を聞きたい、そんな俺の気持ちを察したのだろう。白坂は下から俺の顔色を窺うように自らそんな風に尋ねてきた。
もちろん俺に拒否する気はない。一つ大きく頷くと、『立ったままで居られると首が痛いですから』と言う彼女に促されるままにベッドの縁に腰掛けた。丁度同じ高さになった視線を合わせ、じっと彼女の言葉を待つ。
「いざあなたに話すとなると、どこから話していいものかとても迷うのですが……そうですね、まずは私がこのアパートの大家代行をすることになった経緯からお話しましょうか。――えっと……以前、少しだけ昔の木もれ日荘についてお話したことがあったと思うんですけど、覚えていますか?」
白坂のそんな問いかけに、俺は『もちろん覚えてるよ』と頷いた。
このアパートは彼女のお爺さんとお婆さんが二人で建てて、この名前を付けた。昔はその名前を体現するかのような笑顔溢れる良いアパートで、白坂は祖父母やアパートの住人みんなに可愛がられていた。
懐かしみつつも寂しそうにそう語っていた彼女の顔が印象的で、俺は今でもつい先ほどの出来事の様に思い出すことができた。
白坂は俺の返事に『なら話は早いですね』と頷くと、淡々と続きの言葉を紡ぐ。
「既にあなたもご存知の通り、私が小学生の頃は祖父と祖母が大家として自身も木もれ日荘で暮らしながら建物の管理をしていたんです。この頃はアパートも満室御礼で、賃貸経営という面から見てもとても安定していました。……ですが、それも私が中学に上がるまでの事でした」
「何があったんだ?」
「祖父が亡くなったんです。好きだったお酒の飲みすぎが祟って」
「……すまん、不躾なこと聞いて」
「いえ、あなたが聞かなくても私がこれから話す予定でしたし、気にしないでください。それに、悲しかったですが、祖父の死は既に乗り越えていますから」
彼女がそう言ってくれたおかげで、後悔の念に苛まれそうだった俺の心は少しだけ楽になった。励まそうとしている人に励まされるなんて、俺は何をやっているんだろうか。……まったく情けない。
しかし、それを反省するのは後だ。
今はとにかく最後まで聞き届けようと、俺はまた彼女の話に耳を傾けた。
「祖父の死後、木もれ日荘は祖母一人で管理されるようになったのですが、その後はまさに坂道を転げ落ちるようでした。祖父の死が何かのきっかけとなったかのように、次々と入居者の皆さんが木もれ日荘から引っ越してしまって、半年ほど経った頃には誰も居なくなってしまったんです」
「……どうして出て行っちゃったんだ? みんな仲良かったんだろ?」
「これは祖母に聞いた話になりますが、念願のマイホームを購入したのでそちらに引っ越したり、一人暮らしの親を心配した息子夫婦に声をかけられたりということが偶然重なったみたいです。引っ越される際には、皆さん少し寂しそうにされていたと聞いています」
「……そっか、後ろ向きな理由で去っていったんじゃなかったんだな」
「はい。皆さんが居なくなってしまったのは寂しかったですが、そこは不幸中の幸いでした」
そう言って白坂は淡く微笑んだ。
その表情には嘘や強がりを言っている様子はなく、彼女の本心からそう思っているのだと理解できた。
……だけど、俺は『賑やかだった頃の木もれ日荘の雰囲気が好きだった』と語る彼女を知っている。
そんな彼女が誰も居なくなってしまった木もれ日荘を見て何も思わなかったとも思えず、俺は当時の彼女の心中を察して密かに唇を咬んだ。
「それからの三年間は、空室が目立つ日々でした。たまに入居してくれる方がいても一年足らずで出ていかれることがほとんどで、あまり定着はしませんでした。もちろん祖母もこんな状況をどうにかしようと家賃の値下げを実施したり、部屋のリフォームを行ったりしたのですが、結果はあまり振るわなかったようです」
『ままならないものですね』と自嘲気味に笑う白坂の姿に、俺は胸を締め付けられるような息苦しさを感じた。
……辛い。
好きな物が自分の手から離れていく辛さは俺も経験したことがあるからよく分かる。あの大事に握っていた宝物が砂の様に指の間からすり抜けていくような、絶望にも似た感情。
あれを現在進行形で彼女が感じているのだと思うと、当事者ではないはずの俺の胸まで苦しくなった。
もう、不幸の連鎖は終わってくれ。俺は彼女の話を聞きながらそう切実に願ったが、しかし、木もれ日荘の斜陽はまだ終わらないらしい。
寧ろ、ここからが彼女にとっての本当の不幸なのだと、彼女の表情が物語っていた。
「……そして、この春。私が中学を卒業する直前になって、遂に祖母も病に倒れたんです。余命一年の腎臓がん。祖母の付き添いで病院を訪れた私と父に告げられたのはそんな残酷な現実でした」
「そんな……」
「流石にショックでした。この病気は母だけでなく、祖母までをも私から奪うのかって……。その日の夜は祖母が搬送された病室でみっともなく泣いちゃいました」
「…………」
「……でも、私は泣いてばかりでもいられませんでした。祖母も病床に倒れてしまった今、誰も木もれ日荘を管理する人が居なくなってしまいましたから。私は帰宅するとすぐに父に『私が木もれ日荘の大家になる』と宣言しに行きました。……まあ、その時は子供の戯言だと一蹴されてしまいましたけど。それから何度も口喧嘩の様な言い合いをして、私はようやく条件付きで大家代行の座に就任したんです」
そこでようやく、白坂は口を閉ざした。
明かされた彼女と木もれ日荘の過去に、俺は口にすべき言葉が見つからない。
きっと、彼女に言うべき言葉、かけるべき言葉は沢山あるのだろう。だけど、俺の口はまるで誰かに接着剤でくっつけられてしまったかの様に開こうとはしなかった。
「ここまでで何か聞きたいことはありますか?」
と、そこで白坂がまるで授業中、生徒の理解度を確認する先生の様にそんな質問をしてきた。
俺は何も言ってやれないのに質問しても良いものかと一瞬逡巡しつつも、先ほどの彼女の台詞でどうしても気になった部分があり、それについて尋ねることにした。
「さっき、『この病気は母だけでなく、祖母までをも……』って話していたけど、もしかして――」
「……ああ、やっぱり気づいちゃいましたか」
俺が尋ねると、白坂はそう言って困ったようにほんのりと眉を寄せた。
そして、自分の感情を整えるように一度瞑目すると、彼女が次に目を開いた時、その瞳には昨日も見たあの恐ろしいまでの冷たさが宿っていた。
「そうです。あなたのお察しの通り、私の母も祖母と同じく、腎臓がんに侵されて亡くなったんです。――父がそんな母を見殺しにして」
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