36:『身勝手』な彼女の告白と謝罪

「見殺しって……まさか、そんなこと――」


 『――ある訳ないじゃないか』。

 反射的に俺はそう言おうとしたが、あまりにも冷たい彼女の視線に晒されて、それは適わなかった。行き先を失った言葉は徐々に口の中で萎み、重苦しい空気に溶けるように消えていった。


「……まあ、信じられないのも分かります。でも、本当の事なんです。母が癌だと分かって入院してから亡くなるまで、あの人はたったの一度さえ、お見舞いにも来ませんでしたから」

「……何か来れない事情があったとか?」

「さあ、どうでしょう? 母が亡くなった日以来、父とは殆ど口を聞いていないので分かりません。ですが、仕事の日は兎も角、父は休日もずっと家に居て自室にこもってばかりいましたので、何か用事があって行けないということは無かったと思いますよ」


 白坂はあくまで淡々と、俺に彼女が知る事実を告げる。


「思えば昔からそうでした。私が幼くて母がまだ元気だった頃から、父は大抵外出しているか、自室にこもっていました。記憶を遡ってみても、父と遊んだ記憶なんてありません。父は自分のことばかりで私達家族のことはいつも二の次なんです。……本当、父親としてはどうしようもない人ですよね」


 白坂はそう言って強張っていた表情を少し緩め、諦観の極致に達したかのような表情を浮かべた。しかし、あの冷たい瞳だけはそのままだ。


「きっと、あの人は家族のことなんてどうでもいいんです。私達なんてどうでもいいから心配なんてしないし、管理が面倒だから私が大家になると言っても反対して取り壊そうとするんです。どこまでいっても自分本位で、身勝手で、家族の気持ちなんてちっとも考慮に入れない人。それが私の父という人間なんです」


 心の内にあった複雑な感情を吐きだす様に語った白坂の話を聞いて、俺はようやく彼女が抱えていた問題と、自身が置かれている状況を正しく理解することができた。


 おそらく俺の新しい居住先云々の話は、俺に何かしようとしたとか、俺に何か問題があったからとか、そういう訳ではなかったのだ。


 俺が木もれ日荘に居ると、このアパートが取り壊せないから。

 さらにいえば、俺が居ると白坂が大家代理としてこのアパートを管理、存続させることを諦めないから。

 だから、彼女の父親は俺に木もれ日荘から退去させようと、こんな俺にメリットしかない様に思える提案をしてきたのだ。


 大人気ない。俺はここまでの話を聞いて、そう思った。

 でも、俺は彼女の父親に何かを言える立場に居ない。見かけたことも、会ったこともなく、たった今白坂から話を聞いただけ。木もれ日荘の一住人でしかない俺には何かを言う権利も資格もないのだ。


 いきなり学校を飛び出してきたはいいものの、かといって何ができるでもない。あまりの自分の無力さに無意識に手に力がこもった。


「……でも、私にあの人の事を悪く言う資格は無いのかもしれません」


 最後の台詞から少し間を置いて、白坂は静かにそう言った。

 俺がその意味を掴めず眉を寄せれば、彼女は自嘲気味に笑って『だって』と切り出す。


「私も……私だってあなたに同じことをしていましたから。あなたの気持ちを考えず、自分の願い、希望だけを考えて身勝手な行動をしていました」


 そんな彼女の言葉に、俺は本格的に首を傾げる。


 白坂がいつ人の気持ちを考えず自分勝手に行動したというのだろうか。彼女はいつもこのパートと入居者の事を考え、住人が気持ちよく健康的な生活を送れるようにと心を砕き、献身的な働きをしてくれていた。

 俺はそれに何度も助けられてきたし、感謝もしてきた。食事なんて、もう彼女なしなど考えられない程には胃袋を掴まれてしまっている。


 そんな白坂が身勝手とは、一体何の冗談だろうか。


「……おかしいとは思いませんでしたか? アパートの一室に私の労働力なんていう他では聞かない奇妙な特典があることに。引っ越し初日にあなたに『要らない』と断られても、私が何度もあなたにお節介を働いたり、料理を作ろうと提案したりしていたことに」


 彼女の言う通り、それは確かに以前から少し疑問に感じていた。

 ことある毎に俺に料理を振るまおうとしたり、俺の特典要らない宣言に対して『ギブアップですか?』と聞いてきたり。大家と入居者という関係を除けば、ただのクラスメイトでしかない俺に何故そこまで構うのだろうかと疑問に思ったことは、正直何度もあった。


 でもそれは、このアパートを守る為、白坂が好きだった頃の賑やかな姿を取り戻す為。その為に行った行動のはずである。


 もし、それを『身勝手』というのなら、その事情を知りながらそれに甘えていた俺は身勝手どころの話では無い。傲慢で、無神経で、やはり彼女が気に病む必要は何処にもないのだ。


 ――だから、そんなこと気にするな。

 そう言おうとした俺の言葉は、眼前に突き付けられた彼女の手によって遮られ、またもや行き先を失った。


「確か空木さん、引っ越して来た日に『特典は入居者が逃げないようにする為か?』って言っていましたよね? ……実はそれで正しかったんです」

「……どういうことだ?」

「言葉通りの意味です。私があんなにしつこく『特典』の提案していたのは、全て自分の希望を叶えるため。こちらから一方的に恩を売りつけることで、恩義を感じたあなたをこのアパートに縛り付けようとしたんです」

「そんなこと――」

「――ないと言い切れますか? 相手の気持ちを人一倍気にしているあなたが、私への恩も感謝の念も全て捨て置いてここから出ていけると、本当にそう言い切れますか?」


 いつにも増して厳しい彼女の言葉と視線に、俺は何も言い返せなかった。

 そしてそれは、無言の内に彼女の言葉を肯定しているに等しい行為だった。


 何も言い返さない俺を見て、白坂はふっと視線を和らげる。


「……ごめんなさい。責めるつもりは無かったんですが、つい、厳しい口調になってしましましたね」

「……いや、俺こそすまん」

「どうしてあなたが謝るんですか。あなたは何も悪くないのに。悪いのは全部私です」


 自虐的にそう言って、彼女は俺と彼女の間の布団の上に置かれた封筒へと視線を落とした。そして、震える手でそれを拾い上げ、俺へと差し出してくる。


「だから、今日は今までの事をあなたに謝ろうと思って、この封筒を渡す役目を父から引き受けたんです。――今まで勝手なことをしてごめんなさい。あなたの了承も得ずにずかずかとあなたの間合いに踏み込んでごめんなさい。……あなたの優しい気持ちを無駄にしてごめんなさい」


 懺悔する様に俺への謝罪の言葉を述べる白坂。

 俺はその一つ一つを静かに聞き届ける。


 そして最後に、彼女は一つ大きく息を吸うと――


「今まで私の我儘に付き合わせてしまってすいませんでした。新しい居住先へ行っても元気でいてくださいね?」


 そう言って彼女は俺の手を取ってまた封筒を握らせると、『もう言うべきことは全て言い切った』とばかりに口を閉ざした。


 その姿を正面から見据えつつ、俺の心中は言葉にしがたい思いがぐるぐると渦を巻いていた。


 彼女の言う『身勝手』に怒っている訳ではない。

 彼女の好意だと思っていた物が計算された物だったことを知って悲しんでいる訳でも無い。

 しかし、かといって、学校を飛び出した当初考えていた『話を聞いて彼女を励まそう』ということからも、少しだけ異なってきているように思う。


 俺が今、彼女に抱いている感情は、もっと別の物。

 これは…………そう、昨日正人が熱く語っているのを見た時と同じ様な気持ちで――


「? 空木さん?」


 俺が不意に封筒を横向きに持ち替え、丁度その上部中央の辺りを指で摘まむと、俺の謎の行動を訝しんだ白坂が声をかけてくる。彼女は俺に『何をしているのか』と視線で尋ねてきていたが、俺はそれを理解しつつも敢えて視線の意図に気づかなかったふりをする。


 俺は一瞬だけ彼女に視線を送ると指先に力を込め――




――封筒を真っ二つに引き裂いたのだった。

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