37:我儘な俺の『身勝手』なお願い
「な、何をやっているんですかっ!」
俺が散り散りになるまで封筒を破くと、彼女は焦った様に封筒へと手を伸ばした。
しかし、ふらついた今の彼女の状態では届くはずもなく、俺の手元まで辿り着く前にその手は彼女の上体ごと布団の上へ墜落する様に落ちた。
上体を伏せってしまった彼女を起こしてやると、白坂は咎める様に俺を至近距離から睨んでくる。
「どういうおつもりですか? それを破いてしまったら、新しい居住先へ引っ越せなくなってしまうじゃないですか」
彼女の言葉にはいつになくトゲがあったが、俺はそのことに気づかない振りをして、ただ『いいんだよ、これで』と返した。
「……まさかとは思いますが、私に気を使っているんですか? もしそうなら私のことは気にして戴かなくて結構ですよ、私なら大丈夫ですから。別にあなたが居なくなっても、このアパートのことは自分で何とかしてみせます。だから、あなたは何も気にしなくていいんです。明日、もう一度私が父に頼んで同じ契約書を作成してもらってきますから、今度は破らないで――」
俺は彼女の台詞が終わるのを待たずして、その額を軽く握り込んだ中指で弾いた。
冷却シートの上からだったので痛くは無かったはずだが、白坂は『あいたっ』と小さく悲鳴を上げた後、何をされたのか理解できなかった様に弾かれた額を押さえてポカンと俺を見つめてくる。
そんな彼女へ向けて、俺はすっと三本、指を立てて見せた。
「君には言いたいことが三つある。まず一つ、俺は君の言う『我儘』を迷惑だと思ったことはただの一度もない。君に感謝することはあっても、非難するようなことは絶対にあり得ないよ」
そう言って俺は一本指を折る。
「次に一つ。ここで君と過ごした時間、ここで君と笑い合った時間は、一分たりとも俺にとって無駄な時間じゃなかったよ。君が俺の間合いまで踏み込んできてくれたことは、『俺の人生の中で最も僥倖だったことの一つだ』ってこれから先何度だって言ってやる」
俺はまた一本指を折る。
そして、何やら勘違いしている彼女へ、はっきりと自分の意思を告げる。
「そして最後に三つ。何より俺はここから出ていくつもりなんてない」
「どうしてですかっ! 向こうの方が、ずっと新しいのに。……向こうの方がずっとずっと条件がいいのに。何で、どうしてあなたは、木もれ日荘を取ると言うんですか!」
俺が指を折る度にその端正な顔をくしゃりと歪めていた白坂は、俺が最後の指を折った瞬間、堪えきれなくなったかの様に叫んだ。
それはほとんど泣き声のようなか細い叫び。
もし、彼女が風邪を引いてなどいなければ、きっと胸ぐらに掴み掛かられていたであろう。そう思わせるだけの迫力があった。
「……やっぱり私のせいですか? 私が恩着せがましくあなたに世話を焼いたから、ここから離れづらいのですか?」
「違うよ。違う、そうじゃない。俺が――俺自身が、木もれ日荘の方がいいって思っているから、ここに残るって言ってるだけなんだ」
俺が宥めるようにできる限り優しい声音でそう言うと、今度は白坂が『何を言っているんだろう』とばかりに首を傾げた。『俺の言うことは理解できない』と、はっきりとそう彼女の顔に書いてある、そんな気がした。
だから、俺はそんな彼女に言い聞かせるように、何も言えなかった先ほどまでの自分とは違って、今度はちゃんと自分の考えを伝えるのだ。
……気恥ずかしいから、少しだけお道化た調子で。
「だって、向こうへ引っ越したら、もう君の手料理が食べられないだろ?」
「……え?」
「だから、料理だって。俺はもう君の手料理じゃなきゃ満足できないお腹にされてしまったからな。いまさらコンビニのおにぎりには戻れないよ」
少々大袈裟にお腹を摩れば、白坂はポカンと俺を見つめてくる。
「…………たった、それだけの……理由で?」
「それだけって、君なぁ……。昨日、正人も言ってただろ? 君の料理にはとても価値があるって。俺にだってそうさ」
少なくとも俺にとって、彼女の作った料理には『この料理が食べられるなら、ここにずっと住んでいたい』と思わせるに足るだけの価値があると、本気でそう思っている。
例えどんなに設備の整った新築のマンション、どんなに家賃の高い高級マンションを提案されたって関係ない。俺はきっと何度だって、今と同じ様に断るだろう。
「君は俺のことを優しいって言ってくれるけどさ、本当はそんなこと全然無いんだ。本当の俺は君が知っている以上に傲慢で、自分勝手で、君の我儘が可愛く見えるくらいに俺は『身勝手』な奴なんだ」
「……そんなことないです。スーパーからの帰り道のあの時も、ハルちゃんが来たあの時も、……一緒に月を見上げたあの時も、あなたはいつも優しかった。いつだって私に優しい気持ちをくれていたんです」
『だから、あなたが身勝手なんて、そんなことはあり得ません』と、白坂は首を横に振る。彼女のからの信頼を感じ、それが何だか無性にこそばゆかった。
しかし、今は照れている場合では無い。俺は表情に出さないよう気を付けて、代わりに態とちょっとお道化た調子で『そうでもないぞ?』と返す。
「俺は自分本位な人間だから、君の都合なんて知らない。君の思惑だって知ったこっちゃない。ただ俺は自分の都合だけで、君の料理を食べたいから『ここに居たい』って思っている。この居心地のいい木漏れ日荘で、君という『特典』を存分にこき使ってやるんだ!」
『だからさ』と言いかけて、俺は白坂の手を取り――
「どうかそんな我儘な俺を、ここに……君の居る木もれ日荘に居させてくれないか?」
――彼女にそんな『身勝手』なお願いをした。
我ながら酷いお願いだなと、俺は心の中で自嘲する。
彼女の抱える問題に対して何か解決策を見出してやれる訳ではない。
彼女の父親に対して何か文句を言ってやれる訳でもない。
ただ、彼女から自分に対して抱えている罪悪感だけでも取り除いてやりたい。
そんな俺ができる精一杯のことだったとはいえ、もう少し何か言い様があったのではと頭を掻きむしりたくなった。
もしかしたら、こんなことをしても何の慰めにもならないかもしれない。
でも、何も悪くない俺のことで彼女が謝るのを見ていられなくて、何か言わずにはいられなかったのだ。
……そしてそれは、幸運にも意味のない行動では無かったらしい。
「……ずるいです、空木さん。あなたにそんな事を願われたら、私はこの部屋の『特典』として、頷くしかないじゃないですか」
そう言って俯いていた顔を上げた白坂は……笑っていた。
瞳からはあの凍えるような冷たさが消え、口元ははにかむように一筋の線を引いていた。
「……最低ですね。同級生の女の子をこき使ってやるだなんて。あなたはもっと優しい人だと思っていたのですが、少し認識を改める必要がありそうです」
「だから言っただろ? 俺は身勝手な奴だって。寧ろ今までの君が買いかぶりすぎだったんだよ」
「……ふふ、そうかもしれませんね」
俺の一言に小さく笑った白坂は、もう俺が知るいつもの彼女だった。
俺はその事にひどく安堵する。
「空木さん」
「何だ?」
「ありがとうございます」
「……さあ、何に対してか分からない礼は受け取れないな」
照れくさくて思わずそっぽを向けば、白坂は今まで見たどんな表情よりも綺麗な顔で笑ったのだった。
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