34:儚い彼女の思わぬ提案

 侵入した白坂の部屋は、当たり前だが俺の部屋の間取りと変わらなかった。

 玄関から続く短い廊下の奥にはLDKがあり、その手前には風呂やトイレ、そして一つだけある洋室へ続く扉が待ち構えている。


 俺はまた少しだけ躊躇しつつも、洋室へ続く扉を開いた。

 極力余計な物は見ない様に気を付けて部屋の中を見れば、予想通りそこには彼女がいつも寝ているであろうベッドがあった。白地にリーフ柄の可愛らしい布団が掛けられており、俺はその上に彼女を起こさないよう慎重に下ろした。

 寒くないように首元まで掛け布団を上げてやれば、彼女は安らかな寝息を立て始め、俺はそれを見てようやくほっと一息ついた。


 しかし、まだ落ち着くわけにはいかない。

 入ってきたときと同様に音を立てないよう注意して外へ出ると、俺は近くのコンビニへと走った。そして解熱剤や替えの冷却シート、あとは起きた時に食べてもらえるように果物ゼリーとレトルトのおかゆ、スポーツドリンクを購入し、また来た道を戻る。


 白坂の部屋へ戻ってくると、まだ彼女は眠っていた。寝相も悪くない様で、特に腕や足が飛び出すこともなく出ていった時のままだった。


 俺はベッドの傍らに腰を降ろし、彼女の顔を見つめる。

 熱に浮かされ少し寝苦しそうな彼女は、見ていなければ症状が悪化してしまうんじゃないかと心配になる。だがしかし、幸いにも呼吸は落ち着いている。素人見立てではあるが、起きた時にちゃんと食事をして薬を飲んで寝ていれば明日には良くなっているだろう。


 ならば、今俺がすべきなのはいつ彼女が起きても良いように準備しておくことであり、準備を終えれば可能な限り傍に居て何かあれば対応することだ。


 そう判断した俺は、今の内に買ってきた物を冷蔵庫で冷やさせてもらおうと立ち上がって部屋を出ようとして、その途中、ふとタンスの上にあった写真立てに目を止めた。


「これって……」


 不思議と気になって吸い寄せられるように手に取れば、それは今よりは幾分か新しく見える木もれ日荘をバックに撮った家族写真だった。

 中央にランドセルを背負った今より随分幼い白坂が映っていて、その両脇を支えるように彼女と雰囲気がよく似た人達が並んでいる。右下に印字された日付によると、それはおよそ九年前に撮られた物らしく、既に全体的に淡く色褪せていた。


 俺は写真立てを持っているのとは反対の手の指で、アクリル板の上からその写真をなぞる。


 わざわざ写真立てに入れて飾っている古い写真。恐らく彼女にとって大事な写真なんだろうと思われたが、何故か一部が引きちぎられたかの様に破られていた。写真の左上から入れられた切り込みは、丁度白坂の隣に並び立つ男性の顔を切り取るように続いている。


 その人物が一体どんな顔をしていたのか俺には分からなかった。

 ただ、予想ならば簡単についた。恐らくこの男性は――


「……お察しの通り、それは私の父ですよ」


 背後から聞こえてきた声に振り向けば、丁度白坂が掛け布団を押し上げ上体を起こすところだった。起き上がる腕に力が入らないのか、ふらつく彼女を支えて起きるのを手伝いながら、俺は彼女に問いかける。


「お、おい、もう起き上がって大丈夫なのかよ。まだ寝てた方がいいんじゃ……」

「いえ、寝たら少し楽になりましたので大丈夫です。――それに、あなたに話さなければいけないこともありますから」

「俺に話すこと?」

「ええ。……本当は学校が終わってあなたが帰宅したら話そうと思っていたのですが、あなたは素直に戻ってくれそうにありませんからね。仕方ないので今話そうと思います」


 そう言う彼女は口ぶりこそ呆れる様だったが、浮かべた表情は俺の性格を知っている為に『仕方ないなぁ』と諦めているというか、何となく温かい物を感じさせるものだった。


「……空木さん、悪いんですけどリビングのテーブルに封筒が乗っていますので取ってきていただけませんか?」

「分かった」


 俺は頷くとリビングへ向かい、言われた通りテーブルに乗っていた茶色い封筒を持ってきた。そして、『ほらよ』と彼女に手渡そうとすれば、それを手で制される。


「それはあなたに渡そうと思っていた物ですから、そのままあなたが持っていてください」

「俺に? 何が入っているんだ?」

「賃貸借契約書です。あなたの新しい居住先・・・・・・の」

「……は?」


 危うく俺は持っていた封筒を取り落としかけた。


「……待て、待ってくれ。君は何を言っているんだ。俺の新しい居住先? それは一体何の冗談なんだ」

「冗談ではありませんよ。その中身は契約書とその他資料で間違いないです。なんなら今この場で確認してもらっても結構ですよ」


 こんな時に彼女が冗談を言うタイプでは無いことなんて分かり切ってはいたが、彼女が言うこの封筒の中身があまりにも突拍子が無さ過ぎて流石に信じられなかった。だから、俺は慌てて巻き付けられていた封筒の紐を解いて中身を取り出した。しかし――


「マジかよ……」


 出てきた物は確かに彼女が言ったもので間違いなかった。今年の春、木もれ日荘の賃貸契約を結んだときにも見たあの契約書。既にどの建物の何号室かまで決められていて、あとは俺の名前を書くのみになっている。

 俺はまったく流れに付いていけず、何を言ってよいか分からなくなり言葉を失った。


「何でも大和台高校から徒歩五分の新築マンションらしいですよ。玄関はオートロックで、各お部屋には追い炊き機能付きのお風呂とウォークインクローゼット完備。しかも、南向きの建物なので、日中は電気要らずで明るいらしいです。素晴らしい物件ですね。…………木もれ日荘とは大違いです」


 白坂は表面的には淡々と、だが確かに寂しさを感じさせる声音で、俺の新しい居住先についてそう説明してくれる。そして、俺が尚も何も言えないのを見ると、さらに言葉を紡ぐ。


「お金については心配いりませんよ。既に引っ越し費用と家賃三年分――あなたが高校を卒業するまでの家賃は、あなたが契約書にサインした時点で立て替えられることになっていますから。あなたはただ住む場所を変えるだけでいいんです」


 『だから、何も心配はありません』と彼女は言った。

 俺はそれを耳にしながら、俺は何も応えられない。頭はいまだ混乱しており、彼女にどういった反応を返せばよいのか分からなかった。


 ……一旦、落ち着こう。何がどうしてどういう経緯でそうなったのか考えろ。

 ヒントは必ずこれまでの中にあったはずだ。


 一体どうして白坂はこんな物を突然俺に渡してきたのか。しかも、俺に一切の金銭的負担は無く、ただ住居を変えるだけ。住む場所は今よりも格段に綺麗になり、学校からも近くなる。そうなれば通学も楽になる訳で……、どう考えても俺にはメリットしかない。


 ……分からない。先日『ずっとここに居てください』と言っていた白坂がこんな物を用意するはずが無いし、非労働者のはずの彼女が引っ越し費用や三年分もの家賃なんて立て替えられないだろう。

 おそらく彼女は誰かにこれを俺に渡す様に言われたのだと思うが、こんな相手にデメリットしかない提案を一体誰が……


 ――と、そこまで考えて、俺は気づいた。


「……君のお父さんか」


 不動産屋で聞いた、家族内で揉めているという話。

 高校生にして大家代行という白坂の立場。

 俺にメリットしかない引っ越しの提案。

 ……そして、先ほど見た、引きちぎられた家族写真。


 散らばっていたヒントを集めて見れば、一つの答えに辿り着いた。


「……もしかしてだけど。君、お父さんに木もれ日荘の大家代行をすることを反対されているのか?」


 恐る恐る白坂の反応を確かめるように尋ねた俺の問いに対して、彼女はゆっくりと頷いたのだった。

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