5:大家さんは人気者です。
突如窓から吹き込んだ一陣の風が頬を撫でる。
開いていた窓から入り込んだそれは、クラスメイト達の話声で騒がしかった教室内をバサバサと物を揺らしてさらに騒がせながら、すぐに廊下側の窓から出ていった。
俺は『まったく、迷惑な風だ』と嘆息しつつ、乱された前髪を手櫛で整えた。
と、視線を上げれば、先ほどの風に運ばれたのか何かひらひらした物がゆっくりと目の前に落ちてきた。
何だろうか。俺は手のひらを皿の様に構えてそれを受け止める。
手の平の上にふわりと落ちたそれは、ピンク色の一枚の花弁だった。
春を感じさせる、校庭に植えられた桜の花弁であった。
「春だなぁ」
窓から校庭を見下ろしつつ、俺は誰に言うでもなくそう呟いた。
引っ越し作業の翌日。絶好の小春日和に恵まれた今日、俺は遂に高校生になった。
と言っても、それほど感動は無い。『これからまた学生生活が始まるのか』と多少の感慨に耽ることはあるが、昨日感じたような決意や感動の様なものはなかった。ただただ、『無事に卒業できればいいな』と思うくらいである。
「ふぁ~……」
俺は入学式を終えた後、掲示板に張り出されたクラス分けの紙に従って自分の教室へ赴き、指示された席に着いていた。……眠そうに欠伸をしながら。
辺りには麗らかな陽気が満ちていた。
日差しに温められた空気はポカポカと気持ちよく、少し気を抜くだけで眠気に誘われる。前日の引っ越し作業で疲れていたということもあり、俺は今日だけでもう何度目かも分からない欠伸を噛み殺したり、していなかったりしていた。春眠暁を覚えずとはこのことか。
……眠い。非常に眠いが、流石に高校入学初日から居眠りをするというのは躊躇われ、頑張って起きている。眠気がやばかった入学式も何とか乗り越えたので、あとはLHR(ロングホームルーム)さえ乗り切れれば今日は帰宅できる。それまで頑張らなければ。
「「「うぉぉぉぉぉぉ!」」」
俺がぺチぺチと軽く自分の頬を叩いて気合いを入れていると、突然クラスメイト男子達による野太い雄叫びが聞こえてきた。普通にうるさい。
その音量に少し眉を寄せつつ視線を教室の中へと向けると、教室の前方真ん中、教壇の真ん前の席のところにクラスメイト達が集まっていた。その集団は一人の女子を中心にして輪になっているようで、教室後方の俺の席からはクラスメイト達の背中が沢山見えた。
構成としては男女半々――いや、男子が若干女子より多いだろうか。男子女子男子女子で交互に並んでいる訳でもないのでよく分からない。
ただ、何となくではあるが、集まっている人数的にこのクラスではない生徒も何人かは交じっていそうだなとは思った。
その内の一人、さっき雄叫びを上げていたと思われる男子が、鼻息も荒く中心の女子へと問いかける。
「白坂さん、今のって本当ですか!?」
「え、ええ……。今のところ、お付き合いさせて頂いている男性は居ませんが……」
そして問いかけられた女子は、若干引き気味にそれを肯定した。
すると再び上がる男子達の雄叫び。口々に『フリーとかマジかよ!』とか、『それなら俺、彼氏に立候補してみよっかな?』とか、『ああ、神様。彼女と同じクラスにしてくださってありがとうございます。ありがとうございます!』などと騒いでいる。
そんな嬉しそうなクラスメイト達を見て、俺は先ほどとは違う意味で『春だなぁ……』と呟いた。若人たちの青い春である。
まあ、俺も彼らの気持ちが分からないでもなかった。
何故ならその女子は絵に描いたような途轍もない美少女であったからだ。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。そんな美人を表す諺を体現するような美少女を前にして、『お近づきになりたい』と願う彼らの思考は高校生男子としては至極尤もであり、彼らが嬉しそうに騒ぐのも同じ男子として俺もよく理解できた。
正直、俺も彼女が“彼女”でなければ、彼らの仲間入りを果たしていたかもしれない。
……まあ、それにしたって騒ぎ過ぎだとは思うけどな。特に最後の奴、恍惚とした顔で神に祈りを捧げるのは、絵面的にやばいので控えた方がいいぞ。
「それにしても――」
チラリとクラスメイト達の輪の中心を見やれば、そこには男子達の反応に困惑した様に眉を下げている女子――白坂綾乃の姿があった。
「……まさか、同じクラスになるとはなぁ」
そう、俺と彼女は同じクラスになったのだ。
この学校は一学年につき三十人定員のクラスが八つもあるので、そうそう同じクラスになることはないと踏んでいたのだが、俺の予想は外れた。席こそ離れているものの同室になるとは奇妙な縁である。
まあ、かといって学校内で俺から彼女に話しかける機会は恐らくほぼないだろうけどな。
見たところ彼女には早くもファンが付いている様だし、大家さんだからといって昨日のように気安く話しかけていれば彼女を狙っている男子共から目をつけられてしまうかもしれない。高校生活を生徒の約半数に睨まれながら過ごしたくはないので、こちらから話しかけるのは止した方がいいだろう。
ましてや、同じアパートに住んでいるなど――
「口が裂けても言えないな……」
「何を言えないって?」
俺は何故か返ってきた独り言に対する質問に思わず『何をって、そりゃあ――』と素で答えそうになって、『ん?』と一瞬その事に首を傾げた。そして、いつの間にか窓際に人が立っていてこちらへ視線を向けているのに気が付いて仰天した。
驚きすぎて椅子から落ちそうになったが、何とか堪えた。
「正人か、脅かすなよ……」
「わりぃ、わりぃ」
謝っている割に全く反省している様子の無い友人の姿に、俺は大げさにため息を吐いて見せた。
こいつ――
中学では共に三年間ソフトテニス部に所属していて、一緒にペアを組んでいた。そのため、部活が休みの日にはお互いの家でゲームをしたり、長期休暇には他の部活仲間と共にテーマパークへ遊びに行ったりするくらいには仲が良かった。
大和台に受かったことは当然知っていたが、クラス分けの紙には正人は他のクラスの所に名前があったので来るなら放課後かと思って油断していた。
「――で、何が口が裂けても言えないって?」
正人はまたそう聞き返してきたが素直に言えるはずもなく、俺は『何でもない』と適当に誤魔化した。
「それより、わざわざ放課後じゃなくてこんな空き時間に来たってことは、何か用があったんじゃないのか?」
「……そうだった。今日の予定はあとLHRだけだろ? 折角早く終わるんだし、どっか遊びに行かね? この辺りの散策も兼ねてさ」
掘り返されない内に話題を変えると、正人はそんな風に俺を遊びに誘ってきた。
なるほど、それは魅力的な提案である。
昨日引っ越して来たばかりとあって、俺はまだこの辺りの地理に疎い。もちろん引っ越す前に軽く下見はしているが、家の近所や学校周辺にどんな店があるのかだとか、どの道がどこに繋がっているのかだとか、まだあまりよく理解していなかった。
正人の提案はそんな俺にとって渡りに船な提案だと言え、正人に付き合って色々散策するのも良さそうだと思った。
しかし、俺は正人の提案に首を横に振る。
「悪い。今日は夕方から予定があるんだ」
そう、今日の夕方にはバイトの面接の予定が入っているのだ。バイトの収入なしではやっと実現した一人暮らしも早々に終わってしまうので、いくら正人の誘いに乗る方に心が傾きかけていても首を縦に振る訳にはいかない。
誘ってもらっておいて断るのは少し忍びないが、どうせまたこれから三年間は同じ学校に通うことになるので、同じ様な機会はこれからいくらでもあるだろう。今日のところは諦めて貰うしかない。
「折角誘ってもらったのに、すまん」
「まあ、残念だが先約があるなら仕方ないさ」
特に気にした風もなく肩を竦めてそう言ってくれる正人。多少の申し訳なさを感じていた俺はその様子に安堵した。
しかし、『それはさておき……』と前置きしつつ好奇心の色が窺える視線をこちらへと寄越していることに気づくと、何だか嫌な胸騒ぎを覚えた。
「予定ってもしかして…………女?」
「違わい。バイトの面接だよ」
即座に否定してやると、一転して正人は『なーんだ。つまんねぇの』と息を吐いた。
つまんなくて悪かったな。そんなこと言われても、本当に違うんだから仕方がないじゃないか。
「そこは嘘でも頷いてくれよ」
「何でだよ。お前にそんなしょーもないことで嘘ついてどうすんだよ」
「それはホレ、俺の小説のネタになるかもしれないだろう?」
そのあまりに自分勝手な言い分に、俺はこれ見よがしに大きくため息を吐く。
まったく、これだから自称作家という奴は……。
実は正人、趣味で小説を書いてネットに投稿するアマチュア作家をやっている。
書籍化など商業デビューはしていないが腕はそれなりに確かで、その実力は小説投稿サイトのカテゴリ別月間ランキングに正人の書いた作品の名前がよく載っている程だった。一作品に五桁ものブックマークが付くことも珍しくなく、固定のファンも付いている様だ。
俺も正人が書いた作品を読んだことはあるが、話のテンポが悪くならない様にしつつも登場人物の心情を事細やかに表現するその文章力はなかなかのものだと評価している。
……ただ、一つ苦言を呈させてもらうなら、正人は小説のネタに困ると周囲の人間の話を彼の書く小説に盛り込もうとする悪い癖があることだろう。
例えば俺達が中学二年生になったばかりの頃、俺が痛い妄想を繰り返す精神的な病気にかかった時に、『俺の考えた最強の能力』を元にファンタジー小説を書かれたことがあった。
その当時は『自分の考えたものが採用されるなんて』と喜んでいたものだが、精神的な病が完治した際には恥ずかしさで身悶えする羽目になったものだ。
もちろん俺の名前は出ていなかったし、物語として成立する様に改変されてはいたが、自分の黒歴史が元の話を不特定多数の人間に読まれるというのは膝を抱えて部屋に引きこもりたいほどに恥ずかしかったものである。
自身の頭の中だけで一から物語を創作することが大変だというのは分かるので、『参考にするな』とまで言うつもりはないが、こちらから進んでネタを提供しようとも思えないというのが正直なところだった。
だから、正人の『ネタ』発言に俺の目がジト目になってしまうのも仕方のないことなのだ。
「……俺、例え彼女ができても、お前には絶対言わない」
「え、彼女できたのか?」
「『例え』って、言っただろうが! 仮に、の話だよ! 言わせんな恥ずかしい!」
「だよなー。あ、でも、本当に彼女ができたら、その時は詳しい話を聞かせてくれよ?」
「言わないって言ってんだろうが!」
『またまたー』と笑う正人の肩口を、俺は軽く握った拳で殴りつけたのだった。
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