18:嵐の後に。

「はぁー……」


 春海が帰った後、俺はリビングのソファに倒れるようにして座り込んだ。

 背もたれに体重を預け、天井を見上げながら大きく溜息。


 いやもう、ホント疲れた。マジで何なのあの妹。

 最後の最後まで俺を揶揄っていきやがって、あいつには『兄を敬う心とかないのか』と小一時間ほど問い詰めたい気分である。絶対、『ないよ~☆ ある訳ないじゃん!』とかあっけらかんと言うだろうけど。


 ……想像したらムカついてきたので、今度来たら説教してやろう。


「ふふ、お疲れみたいですね」


 俺が脳内でうざったく目元で横ピースを決める妹にデコピンを決めつつ密かにそんな決意をしていると、白坂が隣に腰を降ろす。


 春海を見送ったタイミングで部屋に帰るかと思ったのだが、彼女もそのまま俺の部屋のリビングまで一緒に戻ってきていた。


「まあな。白坂もお疲れ」

「ありがとうございます。でも、私は全然疲れていませんけどね」

「タフだなぁ……。あいつの相手するの大変だっただろ?」


 今日実際に会ったので彼女も理解したとは思うが、春海は『うざい・失礼・騒がしい』と三拍子揃った傍にいれば鬱陶しいこと極まりない存在だ。なので、『さぞ白坂も疲れたことだろう』と思ってそう聞いたのだが、彼女は『そんなことはありません』と首を振った。


「今日はとても賑やかで楽しかったです」

「……別に気を使わなくてもいいよ。賑やかっていうか、騒がしかっただろ」


 俺が春海に揶揄われて、それに俺がツッコミを入れるか怒る。終始そんなことの繰り返しで、静穏とはかけ離れた一日だった。

 ぶっちゃけた話、自分でも『過剰に反応し過ぎたかも』という自覚はあったし、近所迷惑だったことは反省するべきだと思っている。


 そしてそれは白坂にも同様で、彼女には騒がしくしたことに加え、妹の我儘に付き合ってもらってダブルで迷惑をかけてしまったので、俺は兄として頭が上がらない思いだった。


「……すまん白坂、色々迷惑かけて」

「いえ、迷惑なんてそんな……。確かに少し賑やか過ぎるきらいはありましたが、決して迷惑なんかじゃありませんでしたよ。寧ろ感謝したいくらいです」

「……はぁ?」


 思いがけない言葉に、『どうしてそんな感想が出てきたんだ?』と俺は首を傾げた。


 騒がしくして感謝される、なんて訳が分からない。騒音なんてストレスでしかないし、俺達の兄妹喧嘩なんて見苦しいだけで感謝される要因なんてないだろうに。何故そんな思考に至ったのか疑問だった。


 そんな感情が表情に出ていたのか、白坂は俺の顔を見てくすりと笑う。


「少し、昔話をしましょうか」


 そう言うと白坂はソファから立ち上がって、こちら側に背を向けるようにして窓際に立った。時間も時間の為、もう外は暗くなっているので外の景色はほとんど見えないはずだが、彼女はどこか遠くを見るように目を細めたのが反射した窓ガラスから分かった。


 それから一呼吸分ほどの時間を置いて、彼女はこちらへ振り返る。


「空木さん、このアパートの名前って覚えていますか?」

「え? ……あ、ああ、木漏れ日荘だろ?」

「そうです。この名前は現大家――私の祖母が、亡くなった祖父と一緒にこの建物を建てた時に名付けたそうです。その名の通り、『木漏れ日に包まれたような暖かな雰囲気のアパートになります様に』と願いを込めて」

「……へぇ、素敵なお婆さんなんだな」

「ええ、とっても。私の自慢の祖母です」


 白坂は自分のお婆さんを褒められ、はにかむ様に微笑んだ。

 その表情はまるで自分のことの様に嬉しそうで、彼女が余程お婆さんを敬愛しているだろうことが窺える。


「そんな願掛けのお陰か、私が小学生の頃までは笑顔と笑い声が飛び交うとても居心地のいい場所だったんですよ? 入居者の方も沢山居らっしゃって、父に連れられて遊びにきた時には、祖父母はもちろん、当時の入居者の方々にも沢山可愛がっていただいていました。……まあ、今はご存じの通り、見る影もないですけどね」


 白坂は過去を懐かしむ様にそう言って、最後には寂しそうに笑った。


 ……何故だろう。俺にはその時の顔が泣いている様に見えた。

 形にはならない涙の粒が彼女の瞳からぽろぽろと溢れだしていて、そっと頬を涙で濡らしている。実際には涙なんて一粒も流していないのに、そんな幻視が彼女の顔の上に重なって見えていた。


 だからだろうか、俺は白坂に何と返せばいいのか分からなくなった。


 こんな時、何と言うのが正解なのだろうか。

 『俺しか入居者居ないもんな』と冗談っぽく乗っかる?

 それとも『そんなことはないと思うぞ?』と、口下手なりに励ますべきだろうか。


 ……分からない。


 こんな時モテル男は即座に気の利いた台詞の一つや二つ返すのだろうが、俺では気まずげに頬を掻きながら沈黙することしかできない。今はそれが少し恨めしかった。普段世話になっている女の子に言葉の一つもかけてやれないのだから。

 ……少しだけそんな自分が嫌になった。


「私はあの頃の木もれ日荘の雰囲気が大好きでした。入居者の誰かが困っていたら他のみんなで助け合ったり、何かお祝い事があれば一緒にお祝いしたり……。まるで、木もれ日荘の住民が一つの家族みたいでした」


 何故白坂が自分を部屋の特典にしたのか、少し理解できた気がした。


 きっと、彼女は好きだった頃の賑やかな木もれ日荘の姿を取り戻したかったのだろう。

 誰も入居者が居なくなったこのアパートをまた人で一杯にする為に。静かになってしまったこのアパートにまた笑い声を取り戻す為に。自分の労働力を対価に差し出してでも、何としても人を集めたかった。だから、あの様な特典を設定したのだろう。


 それが理解できたから、次の彼女の言葉も割とすんなり腑に落ちた。


「だから私、今日お二人と一緒に過ごせて、とっても嬉しかったんです。このアパートにあの頃の賑やかな雰囲気がまた戻ってきたみたいで。……思い描いていた夢が現実になったみたいで」

「……悪い。俺はそんな大層なことをしたつもりはないんだ」


 だからこそ、彼女から感謝されるというのは何だか申し訳なかった。


 白坂は俺達の何でもないやり取りに喜んでいてくれたようだが、少なくとも俺にそんな意図は無かった。俺はただうざったらしい妹の対応をしていただけであり、それに感謝されるというのは『喜ばれる様なことができた』という満足感よりも先に申し訳なさが先にたった。


 彼女に世話になっている身としては、普段彼女から受けている恩に比べて、俺のはあまりにもちっぽけだと感じてしまう。ちっとも釣り合いなんて全然とれちゃいない。もし天秤にお互いの感じている恩を乗せられたのなら、片側に傾き過ぎて話にならないだろう。


 そう感じたから俺は彼女に謝った。

 『そんな些細なことで感謝させてすまない』と。


「……やっぱりあなたは真面目な方ですね」

「え?」


 色々考えているうちに床へ縫い付けられていた視線を上げれば、いつの間にか白坂はこちらへ振り向いていた。いつか見たあの柔らかな笑顔でこちらを見ており、やはり俺の心臓が大きく跳ねた。


 久しぶりに訪れたこの奇妙な感覚に、俺はまた戸惑う。

 周りの気温が急に上がったように暑く感じ、自宅のソファに座っているのに全く落ち着かない。そんなことはないと分かっていながら、『これは何かの病気の症状なのだろうか』と少し疑った。


「一つ、聞いてもいいですか?」

「……何だ」


 ドクンドクンと落ち着かない心臓に見ないふりをして、極めて平静を保っているかのように見せながら何とか答える。


「どうしてあなたはそこまで強情なのですか? 無償タダでくれるというなら、受けられる恩恵は貰っておけばいいのに。自分にとって何でも無いことで感謝されたのなら、勝手に感謝させておけばいいのに。どうして素直に受け取ろうとはしないんですか?」

「それは……」


 白坂から問われた問いに俺は少し口ごもる。


 何故か? それは……はっきり言って俺にも分からない。

 子供の頃、両親に『他人に親切にされたら必ずお礼を言うこと』と教えられたし、昔からそういうものだと思っていたから、改めて『何故か?』と問われても何と答えて良いのか分からない。


 俺にとってはそれが普通で、白坂が問いかけてきたような振る舞いをするのはなんだか嫌だったから。それだけでしかないのだ。


「それは?」


 再度問いかけられて少し焦る。

 ……ダメだ。いくら考えても考えが纏まらない。同じような思考がぐるぐると回り、満足な回答ができそうになかった。

 ……もうこうなったら、回答になるか分からないが思いつくままに話すしかないか。


 俺は『ちゃんとした答えになるか分からないけど……』と予防線を張ってから、ゆっくりと話しだした。


「他人に何かしてあげたり物をあげたりするのってさ、自分の心を渡す行為だと思うんだ」

「自分の心?」

「ああ。前に世話になったからとか、生活態度が見るに堪えなかったとか、それを他人にあげた理由なら沢山あるだろうけど、結局の所、それは全部『その人に何かしてあげたい』『その人の為になりたい』って気持ちがちょっとくらいはあるからだと思うんだ。じゃないと、『何かをしよう、あげよう』なんて思わないだろうから」


 白坂が俺に夕飯を作ってくれるようになったこともそうだ。

 主な理由は『俺の適当な食生活を見かねて』であるが、それは俺を憐れんで『夕飯を作ってあげたい』と思ってくれたからそうなったのだ。もし、そんな憐みも無ければ俺の食生活を知っていても何も言わなかっただろう。


「だからさ、そんな気持ちがこもった物を貰って何もしないっていうのは、何か嫌なんだ。その人の気持ち、延いては心まで蔑ろにしている気がして」


 俺は頭の中で浮かんでは消えていこうとする単語を懸命に捕まえながら、出来るだけ意図が伝わるように文章として組み立てる。


「感謝されることも今のとちょっと似てる。感謝っていうのは、自分が他人に何かしてそれに対するお礼の気持ちな訳だから、自分に『何かしてあげたい』っていう気持ちがないのにそんな気持ちを貰うのって変な気がするんだよ」


 繰り返しになるが、今日の俺達のやり取りに白坂を喜ばせる意図は全くなかった。『彼女の為に何かしたい』とは思っていなかったし、何なら『迷惑をかけているだろうな』とさえ思っていた。


 なのに、彼女からお礼の気持ちを貰うのはやはりおかしいと思う。

 俺は彼女に気持ちを送った訳ではないのだから、その気持ちを貰う資格はないのだ。


「だから、君の問いに一言で答えるなら、きっと『気持ちの問題』ってことになるんだと思う。上手くは言えないけど……俺からの回答はそんな感じだ」


 最後は少々投げやり気味に纏めつつ、俺は白坂の問いに対する回答をそう締めくくった。

 話し声が無くなり、やけにうるさい自分の心臓の音が耳に響く。


 白坂は俺が口を閉じてもしばらくは何も言わなかった。

 じっと俺の顔を見つめるばかりで、口を開こうとする様子はない。


 ……やっぱり変なこと口走ったか。


 そんな白坂を俺も見返しつつ、俺は早くも後悔し始めていた。

 彼女に催促されて焦ったとはいえ、考えも纏まらないままに話してしまった。『何か嫌』とか『変な気がする』とか小学生の感想文じゃないんだから、『もっとマシな表現は無かったのか』と数分前の自分を問い詰めたくなる。……絶対、『そんなこと言ったってしょうがないじゃないか』と言われるだろうがな。


「…………良かった」


 静かすぎる空気に耐えきれず、『さて、何と言って弁明しようか』と考えていると、不意に白坂が口を開いた。黒い宝石の様な瞳が細められ、彼女は淡く笑う。


「最初に木もれ日荘に来てくれたのが、あなたみたいな優しい人で良かった。あの時、あなたの入居審査を通した私の判断は正しかったです。……空木さん、大家代行として至らぬ点もありますが、改めてこれからもよろしくお願いします」


 どんな人物が来るのか不安だったとでもいうのか、ほんのりと安堵したような笑みに、必死に平穏を保とうとしていた俺の胸がざわついた。


「(……美少女のそんな表情、卑怯過ぎるだろ)」

「え?」

「……何でもない」


 俺はそれ以上彼女の顔を直視できなくて、何故か負けた気分になりながら『……こちらこそよろしく』とだけ返して視線を逸らしたのだった。

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