6:それだけですか?
「おかえりなさい」
そんな風に声をかけられたのは、入学後二週間ほど経ったとある夜の事だった。
場所は木もれ日荘の自室の前。バイトから帰宅し、今まさに部屋の中へ脚を踏み入れようとしていた俺は、突然の呼びかけに一瞬反応が遅れた。
「こんばんは、空木さん」
次いで挨拶された声を頼りにそちらへ視線を向けると、彼女の部屋へと続く扉の隙間からひょっこり顔を覗かせた白坂がこちらを見ていた。
春先とはいえ夜は少し冷えるためか、彼女はラフな私服の上から薄めのカーディガンを羽織っており、引っ越してきた日に一度見てはいたが制服ではない彼女の姿を見るのは何だか新鮮だった。
俺が彼女の挨拶に『……うす』と小さく返事をすると、白坂は部屋から出てこちらへと近づいてきたので、俺も開きかけていたドアから手を離して彼女の方へと体ごと向き直った。
「随分と遅いご帰宅ですね」
「今日はバイトだったからな。放課後から働いていたらこんな時間にもなるさ」
「あら、働いていらっしゃったんですか?」
俺が端的に遅くなった理由を説明すると、白坂はパチクリと目を丸くした。
あれ、話してなかったっけ? そういえば普段木漏れ日荘や学校で見かけても会釈や挨拶くらいしかしてなかったから、そんなタイミングもなかったか。
俺は彼女の問いに『まあな』と頷いて見せた。
「ここの家賃も払わなきゃいけないし、働かないと生活もできないもんでね」
「親御さんから仕送りなどは貰っていないんですか?」
「貰ってないよ。言ってなかったかもしれないけど、俺、親から『自分で生活費を稼ぐことも含めて、自立した生活を送ること』を条件に一人暮らしを許されてるから」
「へぇ、そうだったんですか。中々大変……というか、高校生に課すにしては随分と厳しい条件じゃないですか? それ」
「まあ、楽では無いことは確かだな。でも親の反対を押して俺の希望を通した結果なんだから、文句は言えないよ」
「はぁ……、意外と苦労されていたんですね」
俺が置かれている状況を簡潔に説明すると、白坂は多少感心したように息を吐いた。
俺への評価が少し見直された気もするが、『意外と』がまだ余計である。どうやらこれくらいでは彼女の中の俺への評価は覆らない様である。
「ところで、こんな時間に何の用だ?」
「あ、いえ、大した用では無いのですが、近々この辺りで工事をするという案内が来ていましたので、そのお知らせです。詳しくはその紙に書いてありますので、確認しておいてくださいね」
そう言いながら白坂は後ろ手に持っていた一枚の紙を手渡してくる。
三つ折りに折りたたまれていたそれを受け取って軽く目を通してみれば、彼女の言う通り水道工事の案内らしく『工事中は断水するので注意してください』という旨の案内文が書かれていた。
まあ、工事は俺達が学校へ行っている日中に行われるらしいのであまり関係ないだろうけど、一応記憶の片隅にでも留めておこう。
「分かった。わざわざ遅くまでサンキュ」
帰宅と同時に声をかけられたことから察するに、恐らく俺が帰ってくるのを待っていたのだろう。待たれているなんて思わなかったので仕方なくはあるが、こんな時間まで待たせてしまったことに俺は若干の申し訳なさを感じる。
なので、それへの謝罪の意も含めて礼を言えば、白坂は全く意に介した様子もなく『いえいえ、どういたしまして』と軽く微笑んだ。
「じゃあ、俺はこれで。これから晩飯を食わなきゃいけないから」
白坂の用事も済んだと判断し、左手に握ったビニール袋を顔の前に掲げてそう告げる。
透明なそれの中には、おにぎりが二つとペットボトルのお茶が入っている。今日の夕食用にと、先ほど帰りがけにコンビニで買ってきた物だ。まあ、夕食用にとは言ったが時間帯が既に遅いので、『夜食』といった方が正しそうだけど。
もうこんな時間だし、さっきから俺の腹は何度も空腹を訴えてきていたので、そろそろ会話を切り上げて部屋に入りたいところだ。
「あ、そうですよね。お引き留めしてしまって、すいま――」
そんな事を考えつつ白坂の反応を伺えば、不意に彼女の言葉が途切れた。
こちらを見て何故かポカンと呆気に取られた様な表情になったかと思えば、そこにじわじわと困惑の色が混ざっていく。
「……それだけですか?」
「それだけって、何が?」
問いが指す『それ』というのが何か分からず聞き返せば、彼女は俺の左手に握られたビニール袋を指さす。
「今日の夕食は、まさかそのコンビニのおにぎりだけのご予定なのですか?」
「その予定だけど」
俺が頷いて見せると、白坂はきゅっと眉根を寄せた。
「……それだけで足りるのですか?」
白坂の問いに、俺は心の中で被りを振る。
まさか、もちろん足りるはずがない。朝食ならまだしも、夕食でこの量はいくら俺がそんなに食べない方とはいえ、あまりにも少ない。これだけの量では腹いっぱいとはいかず、せいぜい小腹が満たされるくらいだろう。
『なら、もっと食べろよ』という話なんだが、これにはやむにやまれぬ事情があるのだ。
金銭的な問題――というのも全くない訳ではないが、一番は時間の問題だ。
率直に言えば、ゆっくり食べている時間がない。
現在午後九時半過ぎ。寝るまでにはあと三時間ほど猶予があるが、その間に風呂を洗って入ったり、ゴミ出しや洗濯などのこまごまとした家事をしたり、その日出た授業の課題をこなしたりと、やらなければいけないことは沢山ある。
そんな中、悠長に夕食を作って食べている時間などある訳もなく、二週間生活していくうちに段々と食事にかかる時間が減っていくのは、俺にとって何ら不思議なことではなかった。
最近では効率化に効率化を重ね、課題に取り組んでいる時など何かやりながらでも手軽に食べられて、かつ寝るまで持つくらいには腹持ちがいいもの。端的に言えばコンビニおにぎりが夕飯には最適だろうという結論に至っている。
決して満腹になることは無いが、その日その日で中身の具の内容を変えたり、他社コンビニの物と味比べをしたりと楽しめるので、今のところ大きな不満は無かった。
「足りないけど、これでいいんだよ」
言外に白坂の言わんとするところに内心では同意しつつも、それを悟られるのが何となく嫌で少しぶっきらぼうに返せば、彼女は寄せていた眉をさらに寄せる。
「ちゃんと食べないと大きくなれませんよ? せめて炭水化物だけでなく、野菜も摂るべきです」
「君は俺の母さんか。別に俺が何を食べていようと俺の勝手だろ?」
「それはそうですが……」
痛い所を突かれて思わず言い返すと、白坂がしゅんと項垂れてしまった。
彼女が小柄な事もあってか、その姿が小型のワンコが耳と尻尾をペタンと下げている様子を連想させ、じわじわと罪悪感が出てくる。
……少し、強く言い過ぎたか?
折角白坂が親切心で言ってくれていたのに、俺ときたらつい言い返してしまった。確かに俺が何を夕食に食べようと俺の自由ではあるが、『心配してくれてありがとう』と社交辞令の一つくらいは言うべきだったかもしれない。
「あー……白坂? 悪い、少し言い過ぎ――」
「――少し待っていてください。すぐ戻ります」
そう考えて謝ろうとすれば、俺が謝罪の言葉を言いきる前に白坂は自身の部屋へと入って行ってしまった。
あまりの素早さに引き留める間もなかった。
「……何なんだよ」
その場に残される気まずそうに後頭部を掻く俺。折角謝罪しようとしていた所を潰された形になり、どうしてよいか分からなくなった手をゆっくりと下ろしていく。
この中途半端に言いかけた謝罪の言葉は、一体どこへしまえばいいのだろうか。
……いや、さっきのは俺が悪かったから、全然いいんだけどな?
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