2:今日からここが我が家です。
結果から言うと、結局俺はそのアパートに入居することに決めた。
選択肢が実質そこしかなかったからということももちろんあったが、決め手となったのは、部屋の内見をしたときのイメージが思ったよりも良かったからだ。
小日向のおじさんの運転する社用車に揺られ辿りついたそのアパートは、築五十年を迎えているというだけあって、やはり外観はそれ相応だった。
壁に穴が開いているということこそ無かったものの、壁面に取りつけられたアパートの名前――木漏れ日荘という――の文字が一文字欠けていたし、屋根の塗装は大きく剥がれ落ち、二階へ上るための金属の階段は風雨による赤錆が目立っていた。
これらを年季があると言えば聞こえはいいが、ぶっちゃけて言えばボロかったのだ。
俺はそういうのにあまり頓着しないタイプであるが、もしここに妹を連れて来ていたら眉を顰めていたかもしれない。
しかし、驚いたのは内装である。
ボロっちぃという印象を抱かせる外観に対して、内装は案外まともだったのだ。
壁紙を貼りなおしたのか壁は全面真っ白で部屋がとても明るく見え、床も多少の傷はあるもののピカピカに磨かれワックスがけされた床板には光沢があった。
また、キッチン、バス、トイレの水回りに関してもそれは同様で、『水垢やカビがひどいのでは?』と考えていたのだが、予想に反して前の住人が出した汚れは全く気にならなくなっていた。
大家さんと連絡を取ったおじさんに話を聞くと、どうやら数年前にリフォームを行っていたらしい。空き部屋の数を見る限り、残念ながら入居者獲得には繋がらなかった様だが、俺にとってはありがたい話だった。
そういうギャップ? ――的な魅力もあり、俺はここを気に入った。
入居を決意した俺は内見をしたその日にその旨をおじさんに伝え、数日にわたる諸々の手続きを経て、今日の引っ越しの日を迎えていたのだった。
「ふー……、まあこんなもんかな」
額に浮かんだ汗をタオルで拭いつつ、俺は一息つく。
山の様にあった段ボールを見たときには今日中に終わるだろうかと不安に思っていたが、何とか片付いて良かった。
どうせすぐに戻れるのだからと、極力自宅からこちらへもって来る荷物は減らしたのだが、それでも全ての段ボールを片すのには時間がかかった。午前中から開始しても終わったのは午後八時過ぎ。文字通りに一日作業となってしまった。
タンスやテレビなどの家具家電類は引っ越し業者のお兄さんたちがやってくれたのだが、新しくニ○リで購入した家具の組み立てに手間取ってしまったことが大きな原因だろう。
うん、初めて組み立ててみて分かったが、あれは一人でやるもんじゃないな。
もし次その機会があったら誰かに手伝ってもらおう。
そんなことを決めつつ、俺は全身に纏うほど良い疲労感に導かれるまま、新調したベッドの上に倒れ込んだ。その勢いでベッドが文句を言うようにギシリと軋んだが、今日のところは勘弁して欲しい。
「今日からここが、俺の家なんだな……」
何とはなしに十数年暮らし馴染んだものではない見慣れぬ天井を見上げていると、ふと唐突にそんなことを思った。
今日から向こう三年はここで暮らすのだ。俺一人で。
食事も、掃除も、洗濯も。日々の家事は今までほとんど親にやってもらっていたが、これからは全て自分でやらなければいけない。待っていても誰かが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる事などあり得ないのだから。
昼間はバタバタしていて何も思わなかったが、ここで漸く実感が沸いてきた。
「両親に一人でも生活できると示すためにも……うん、頑張ろう」
だから、俺はそう決意を新たにするのだった。
『ぐー』
――と、そんなタイミングで俺のお腹が大きく鳴った。
そういえば、朝に朝食兼早めの昼食を食べたきり、片付け作業を優先してそれ以降何も口にしていなかった。明日入学式ということもあって、今日中に終わらせなければと必死になり過ぎていたのだ。お腹が文句を言ってくるのも無理はない。
作業も終わったことだし、流石にそろそろ何か食べるか……とも思うのだが――
「動きたくねぇなぁ……」
しかし、今日はもう動きたくない気分だった。
わざわざ起きて夕飯の準備をするのを億劫に思うほどには動きたくない。
それに、引っ越してきてまだ買い物にも行ってないので、冷蔵庫の中には何も無い。何か作るならまずは近所の開いているスーパーまで食材の買い出しに行くところから始めなければいけない。
『そこから慣れない料理して、素人の不味い飯を食べたいか?』と問われれば、答えは否である。
だが、腹が減っていて辛いのも事実だ。腹が減り過ぎて眠れないなんてことになったら明日が辛いし、面倒でも何か胃に入れなければ。
「……今日のところは、近くのコンビニ弁当かおにぎりにしとくか」
今日は疲れているのだし仕方ない。明日から頑張ればいいのだ、うん。
早速決意が揺らぐ自分に苦笑いしつつ気怠い身体に鞭を打って起こすと、丁度そのタイミングで来客を告げるインターホンの音が部屋の中に響いた。
「あ? お客?」
身に覚えのない来客に俺は首を傾げる。
こんな時間に誰だろうか。ここの住所は地元の友人たちにはまだ教えてないし、両親も今日は来ないと言っていた。なので、現在の時点で俺の部屋を訪れる人物にこころあたりが無いのだが……もしかして引っ越し業者のお兄さんが何か忘れ物をしてそれを取りに来たのだろうか?
そんなことを考えている間にもう一度インターホンが鳴った。
……まあ、考えても仕方ないか。
「あー、はいはい。今開けますよー」
俺はインターホンの音に返事を返しつつ、足早に玄関へと向かった。
「何か忘れ物です…………か?」
要件を尋ねつつドアを開けると、そこに立っていたのは引っ越し業者のお兄さんではなかった。
「こんばんは」
その代わりに立っていたのは、一人の少女。
腰の高さまで伸びる黒く、しなやかな長髪は頭の天辺でエンジェルリングが浮んでいるし、血色の良い乳白色の肌は剥いたゆで卵の様に滑らか。冗談の様に整った目鼻の配置といい、ぱっちりとした大きな瞳といい、『まるで人形の様だ』とその時の俺は思った。
そんな美少女と称して問題ないレベルの女の子が目の前に立っており、俺はドアを開けたままの恰好で固まった。無意識のうちに『こんばんは』と返せたのは奇跡に近い。
どうしてこんな時間に俺の部屋に?
というか、誰だ。
疑問で頭が埋め尽くされるが、言葉にはならなかった。
そんな俺を見かねて……かは分からないが、少女は口元に愛想の良い笑みを浮かべ、俺の目をしっかりと見つめてこう言うのだった。
「初めまして空木さん。私は
「は?」
まるで結婚の申し出を受け入れた彼女の様なことを言いだした少女を前に、俺は頭にさらなる疑問符を浮かべることになった。
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