第11話 失われた元号

 講義棟の裏を抜けて、学生寮へ向かう。基本的に省外からの学生には寮が準備されるが、建物はかなり老朽化している。仕送りがあり、金銭に余裕がある学生はもっと便利の良い街の中心部に程度の良いアパートを借りる者も多い。


 青藍は母子家庭で育った。八才の頃に高校の数学教諭を務めていた父親が膵臓癌で亡くなった。働き盛りだった父が亡くなり、家計は一気に苦しくなった。多少の遺族年金と、会計事務所で事務職をしている母親の収入で暮らしていた。本当は大学に行かせてもらえるような余裕は無かったはずだが、母親は遠い親戚回りに頭を下げ、青藍の大学入学資金を捻出してくれた。


 青藍は優秀な成績で大学に入学し、特待生として学費の半額免除を受けている。残りは将来返済が必要な奨学金と、アルバイトで賄っている。親戚への返済もある母親には仕送りはいらないと伝えているが、野菜や果物、時に現金の振り込みで青藍を支えてくれている。


 四階建ての鉄筋コンクリート製の学生寮は、築三〇年以上経つ年代物だ。雨漏りや停電などもたまに起きるし、壁も薄い。隣の学生が音楽を聴いているとドンドンと重低音が響く。もう卒業して出て行ったが、逆隣の男子学生はよく女を連れ込んで派手にはしゃいでいた。聴くに堪えず、夜はできるだけアルバイトを入れ、図書館で勉強をする癖がついた。


「階段しかないんだ」

 今では消防法にひっかかるであろう作りだ。青藍は三階の部屋へ紫遠を案内する。

「階段の他に何があるんだ」

 そうか、エレベーターを知らないということか。青藍は受け流すことにした。三階廊下ですれ違った女子学生が紫遠の姿を二度見した。そう言えば、映画村のコスプレ衣装のような服装のままだったことを思い出す。


 青藍は鍵を開けてドアノブを回す。この部屋は古いが、広さだけは申し分ない。

「そのソファ、いや椅子にでも座ってくれ」

 青藍は緑色のスプリングがへたったソファを指さす。紫遠はそれにどすんと腰掛けた。身体が深く沈み込み、その不思議な感触に目を丸くしている。

「さっきの車といい、ここでは椅子の座り心地がいい」

 紫遠はいたく喜んでソファの上で座ったまま飛び跳ねる。まるで大きな子供のようだ。


「何か飲むか、水かお茶ならすぐに出せる」

 冷蔵庫を覗くと、水しか無い。茶葉があるので電気ケトルで湯を沸かせばすぐに飲める。

「茶をもらおう」

 紫遠はガラスのテーブルに顔を近づけて撫でたり、コンコンと叩いたりしている。

「お茶だよ」

 グラスに柊葉というこの周辺で収穫される緑茶を淹れて紫遠に差し出した。澄んだ湯に茶葉が浮き沈みしている。


「珍しい容器だな、それに良い香りだ」

 紫遠は優雅な仕草で香りを楽しんでいる。先ほどまでソファで跳ねていた男と思えない。それに、ただのガラスコップなのだが、と青藍は不思議に思う。しかし、スマートフォンや車に対するこれまでの言動を見ている限り、彼は古代人の反応を再現しているようだった。


「へっくしょい」

 お茶を口に含もうとした瞬間、紫遠が大きなくしゃみをした。鼻水がつーっと垂れ下がる。くしゃみは五連発続き、青藍は慌ててティッシュの箱を差し出した。

「汚い奴だな、もうはやく拭けよ」

 青藍は呆れている。ティッシュの箱を手にした紫遠は箱ごと持ち上げて、上下左右から観察を始めた。


「ああ、もう面倒だな」

 青藍は箱を奪い返し、ティッシュを三枚ほど取ると、紫遠に手渡した。

「その紙で鼻水を拭くんだ」

 言われて紫遠はティッシュで鼻水を拭い、ティッシュの柔らかさに感動している。

「風邪なのか」

「病のはずはない。俺は至って元気だ」

 紫遠はそう言いながらももう一度くしゃみをする。洞窟から出た途端、急にくしゃみが止まらなくなったという。

「時期的に花粉症というやつか」

 青藍は納得した。花粉症という聞き慣れない言葉に紫遠は首を傾げている。


「この茶は美味い。宮廷で飲むどの茶よりも香り高い」

 改めて茶を口にした紫遠はお茶に感動している。

「その茶は大学の売店で二束三文で買った安物だ」

「そうなのか、庶民が皆これを飲んでいるのか」

 紫遠は驚いている。何度も香りを楽しみながら、飲み干してしまった。


「俺は先を急がねばならない」

 目的を思い出したのか、紫遠は唇をキリッと引き結び、眉をしかめながら立ち上がる。青藍は慌てて止めるが、李州城へ向かう本隊と合流すると言い張って聞かない。

「あんたは一体どこの世界から来たんだよ、パラノイアか」

 青藍が呆れて叫ぶ。

「ぱらのいあって何だ。俺は宗王朝の皇子、紫遠だぞ」

 紫遠は青藍に向かって胸を張る。いい加減にしろ、と青藍は大きなため息をつく。しかし、李州城へ向かうことに強いこだわりを持つことが引っかかった。


「今は何年だ」

 青藍は紫遠の目をじっと見つめる。先ほどまで鼻息を荒げていた紫遠は落ち着きを取り戻し、ソファに腰掛けた。

「今は蒼龍二八年だ。父が即位して二八年目だからな」

 青藍は本棚から歴史書を持ってくる。宗王朝は約三〇〇年続いた比較的短命の王朝だ。蒼龍二八年の出来事を調べてみると、北方の玄兎族が炎の壁を越えて領土に侵入、それを防ごうと皇軍二〇万が北進した。途中の砂漠で軍を統率していた皇子の紫遠が暗殺され、軍は砂漠で散り散りとなる。皇子を暗殺したのは彼が信頼していた側近の青蘭という青年だった。

 青藍はゆっくりと顔を上げる。


「何故、あの洞窟にいたんだ」

 青藍は慎重に質問を選ぶ。紫遠は腕組をしながら洞窟探索からの出来事を順を追って話した。

「鏡の放つ閃光に包まれたと思うと、周囲に誰も居なくなっていたということか」

「そうだ。青蘭が俺を置いていくはずはない」

 紫遠はすねるように唇を突き出す。


「いいか、落ち着いて聞いてくれ。今は公歴二〇二二年だ」

「二〇二二年、そんなに長く即位する王がいるのか」

 紫遠にしてみれば、元号は皇帝即位から崩御までというのが常識のようだった。この国も二〇〇年ほど前までは元号を使っていたが、共和制に移行して世界共通の公歴を使うようになった。


「蒼龍二八年は公歴二一〇年に当たる」

 その意味が分からず、紫遠は首を傾げる。指折り数えようとして眉根に皺が刻まれていく。

「だいたい一八〇〇年前だ。紫遠は一八〇〇年前の世界からここへやってきたということになる」

「嘘だ、ふざけるな」

 その数字の大きさに驚愕したのか、紫遠は反射的に青藍の胸ぐらを掴み上げた。

「く、苦しい」

 青藍は必死で抵抗しているが、力の差は歴然だ。苦悶の表情を見て紫遠ははっとして手を放した。青藍が呼吸を取り戻そうと咳き込む。

  

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