第8話 蒼月の地下牢

 -蒼龍28年(公歴210年) 春 柊都しゅうと


 肌を刺す寒さと、鼻腔にまとわりつく饐えた匂いに青蘭は瞼を開けた。どうやら冷たい石の上に身体を投げ出されているようだ。身を起こそうとして、両腕が重い鉄の輪で拘束されていることに気がついた。


 不意に、後頭部に激痛が走る。おそるおそる痛みの根源に触れてみると、指に乾きかけた血糊がついていた。

 痛みに耐えながらゆっくりと身を起こす。だんだんと闇に目が慣れてきた。ゴツゴツした石の壁、湿っぽい空気、黴の匂い。ここは宮殿の地下牢だ。

 李州城へ向かう途中、紫遠と共に鏡が発見された洞窟を視察に向かった。辟邪と天禄が彫刻された見事な鏡を持ち帰ろうとしたとき、突如閃光に包まれて紫遠の姿が消えた。


 慌てて洞窟の外へ飛び出すと、黒装束の男たちが立っていた。青蘭の記憶はそこで途絶えている。

「紫遠」

 この国の皇子であり、親友の名を呟く。ガン、と鉄格子を叩く音が響き、青蘭は驚きに身を縮める。

「気安く皇子の名を呼ぶな。この裏切り者め」

 牢獄を守る兵卒の声は怒りに震えていた。青蘭は目を細め、唇を引き結んだ。身分の低い自分を紫遠はいつも傍に置いてくれた。それをやっかむ連中は口汚い言葉で青蘭を罵った。しかし、裏切り者と言われる覚えは無い。


「何故、裏切り者と呼ぶのですか」

 青蘭は震える声を振り絞る。壁の影に控える兵卒はわなわなと拳を握りしめているようだ。

「お前は人が羨むほど皇子に目をかけてもらっていた。その立場を利用して皇子を、殺害した」

 兵卒は湧き上がる怒りの感情を押し殺しているようだった。青蘭は目を見開く。唇が震え、息が詰まりそうになる。殺害とは、一体どういうことなのだろう。あの洞窟で何が起きたというのだ。


「紫遠、いえ、皇子が死んだというのですか」

 青蘭は身体中から血の気が引いていくのを感じていた。体温が冷たい石の床と同化するような錯覚を覚える。

「そうだ、お前が殺したんだ」

 兵卒は再び荒々しく鉄格子を殴りつけ、青蘭を睨み付ける。月明かりが照らすその顔は、耐えがたい怒りと憎しみに歪んでいた。


「紫遠が、死んだ」

 青蘭は意識が遠のいていくのを必死でつなぎ止める。足の力がすとんと抜け、その場に崩れ落ちた。

「お前が皇子を暗殺したせいで指揮を失った軍は迷走し、李州城の防衛は失敗に終わった。俺の友も何人も戻ってこない」

 兵卒は暗闇の中で悔し涙を流し、鼻を啜っている。青蘭の頬にも涙が流れ落ち、石床を濡らした。


 自分が暗殺の疑いをかけられたことなどどうでも良かった。それは真実ではないからだ。紫遠の死という現実に、青蘭は世界が崩壊するほどの衝撃を受けた。

 青蘭が打ちひしがれる様子を見て、兵卒は眉根をしかめる。皇子を殺害しておいて、ひどく悲しんでいる振りをするのがどうにも解せない。


「紫遠が死んだなんて、信じられるものか」

 そうだ、紫遠が死んだなんてとても信じられない。あの閃光で姿を消したが、死体を見た訳では無い。きっとどこかで生きている。笑顔で手を振って戻ってくる。

 死んだなんて虚言だ。青蘭はゆるゆると頭を振る。これは何者かの陰謀だ。ここに繋がれたままではできることは限られているが、全力を尽くそう。紫遠はどこかで助けを求めているに違いない。


「お前は皇子殺害の罪で七日後に斬首に処せられる。それまで皇子を殺めたという天下の大罪を詫びるがいい」

「私は紫遠を殺していない」

 青蘭は顔を上げた。涙に潤む琥珀色の瞳には強い光が宿っていた。兵卒はその矜持を帯びた言葉の響きに、それ以上何も言わなかった。


 小さな明かり取りの窓から、雲間に顔を出した月の光が差し込んで、地下牢を蒼く染めた。

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