第25話 怒髪天
「騒ぎを起こせば追い出されるぞ」
青藍の必死の説得で、紫遠は漸く落ち着きを取り戻した。ジオラマを叩き潰しても何も変わらない。紫遠は鼻息を沈めた。展示は宗王朝の最後に差し掛かる。王朝の悲惨な末路を描いた絵画と解説パネルが展示されていた。
「大逆の男」と題された絵は、遠征中に皇帝の長子を暗殺した罪で投獄された青年、青蘭の斬首の場面だ。巨大な斧が振り上げられ、髪を短く切った青蘭が無表情で首を斬首台に横たえている。彼の傍から黒い蝶が飛び立っているのは、罪人の魂が天に昇っていく象徴のようだ。
紫遠は瞬きをするのも忘れて絵を凝視している。瞳には悲しみと悔しさが入り交じった涙が滲んでいる。青藍は呆然とする紫遠の腕を引いて先を促す。
畳み掛けるように、皇帝一族が処刑される場面が絵巻に描かれていた。後世の有名作家の大作だ。王朝の悲惨な末路がダイナミックな筆致で表現されていた。荒涼たる野に石の斬首台が並び、斧を持つ巨漢の覆面処刑人が不気味に佇んでいる。中には幼い子供の姿もあった。それを高台で見守る赤い服の男が、これから朱王朝を開く大臣の朱鴎と解説があった。
「うぉおおお離せッ」
紫遠は怒髪天を突く勢いで、叫び声を上げて暴れ始めた。青藍は紫遠の腰にしがみついて暴走を止めようとする。細身の青藍に、がっちり鍛えた紫遠を抑え続けるのは至難の業だ。
しかし、ここで面倒を起こせば、博物館からつまみ出されてしまう。しかも、展示物保護のガラス代を弁償するのは自分だ。青藍は最悪のパターンを想像し、火事場の馬鹿力で暴れる紫遠を拘束する。
「この単細胞、いい加減にしろッ」
青藍もブチ切れて叫ぶ。
「これが我慢できるかっ」
紫遠は足をバタつかせながら喚き散らす。青藍は大きく舌打ちをしながら、渾身の力で紫遠の身体を床に放り投げた。目の前で繰り広げられる大乱闘に、見学客の女性がきゃっと声を上げる。紫遠はリノリウムの床に転がって眼を白黒させている。
紫遠は呆けた顔のまま、立ち上がれずに青藍を見上げている。周辺には何が起きたかと人だかりができ始めた。
「お前はただの甘ちゃんの王子様だ、紫遠」
青藍は周囲の視線も気にせず叫ぶ。周囲の見学者も固唾を呑んで見守っている。紫遠は立ち上がり、青藍の胸ぐらを掴む。青藍は紫遠の剣幕にも怯えることなく、その腕を掴んで睨み返してくる。
「こんなことが現実なものか、嘘だ。これは悪い夢だ」
紫遠も涙目で負けじと叫ぶ。
「これが今の現実なんだ。お前はさっき周りが見えていなかったと言ったが、その通りだ。眼を背けるな。このままでは青蘭も、お前の一族も処刑される」
青藍の思わぬ一喝に、反論できない紫遠は悔しさと怒りに歯を食いしばる。握りしめたに拳は爪が食い込み、血が滲んでいる。
「この先どうするか、考えるんだ。宗王朝を守ることができるのはお前しかいない」
青藍の声が館内に静かに響いた。紫遠は唇をぎゅっと引き結んで、涙と鼻水を乱暴に拭う。青藍は嗚咽で震える逞しい肩をポンポンと叩いてやる。気が付けば、周囲の見学客がもらい泣きで涙ぐんでいる。
「彼は、宗王朝の熱心な研究者で、つい感情的になってしまったようです」
見学客と警備員に適当に言いつくろって休憩スペースに紫遠を連れていき、椅子に座らせた。紫遠はしばらく鼻を啜っていたが、ようやく顔を上げた。そこには覚悟を決めた毅然とした表情があった。
「取り乱してすまなかった、俺はもう大丈夫だ」
紫遠は深々と頭を下げる。青藍は鼻を鳴らして笑う。
「ガラスを割りでもしたら、お前を置いて走って逃げようと思ってたぞ」
紫遠はバツが悪そうに頭をかく。
「展示品には紫遠の言っていた鏡は無かった」
青藍は洞窟で見つかった二枚の鏡を探していたようだ。しかし、宗王朝の展示物の中にはそれが見当たらなかった。一八〇〇年以上前の時代の鏡、今も残っているのだろうか。
「あの砂漠の洞窟に行ってみるしかないか」
青藍と紫遠は互いに頷く。
ふと、青藍は胸元に何かべっとりと粘液がついていることに気がついた。
「なんだこれ」
青藍は紫遠の顔を見る。その端正な顔から鼻水が垂れていた。
「き、汚ねえ。お前の鼻水かよ」
青藍は指についた鼻水を見て飛び上がる。紫遠はずるずると流れ出す鼻水を袖口で拭いている。青藍は呆れ顔でポケットティッシュを押し付けた。
「次に暴れたら蹴り飛ばすぞ」
青藍は人指し指をつきつけて紫遠にそう警告し、次の展示ブースに向かった。
「青蘭は優しかった」
不満げにそう呟いたのが聞こえて、青藍は紫遠をじろりと睨む。
宗の展示室は手狭だったが、六五〇年続いた朱王朝は文化が成熟し、保護されていたため保存状態の良い出土品も多い。パネルにもかつてない華やかな時代と銘打ってある。朱王朝を開いたのは朱鴎だ。ブース入口には皇帝服を着た立派な銅像まで立っている。
「あいつはこんないい面構えじゃないぞ」
紫遠は銅像に文句をつけている。唾でも吐きかけそうな勢いだ。
ガラスケースには見事な絵画、彫刻、詩文が所狭しと並んでいる。面白くない紫遠はそれをしかめっ面で眺めている。朱王朝の芸術は確かに素晴らしいと青藍も思う。
「これ、俺の知り合いの絵師だ。この彫刻も父が保護した陶芸家の作品だし、その金細工だって宮廷に献上されたものだ」
紫遠の言葉から、どうやら朱鴎は宗王朝の記録を相当改悪して歴史家に残させたようだ。美術品も朱王朝のものとして保存し、それが現在になって出土したことから宗王朝には何も残っていないことになったというわけだ。
朱鴎がそこまで周到な訳が、パネルに記されていた。
「朱鴎は古の皇族琥の末裔だった。現王朝の宗氏に滅ぼされ、一族の多くは処刑された。朱鴎の祖先は逃亡の末に朱姓を名乗った、とある。朱鴎は一族の恨みを晴らし、宗王朝の功績を貶めたんだ」
青藍はパネルの説明を読み上げる。卑劣な男だ、紫遠は朱鴎のおべっかを思い出して唇を噛む。皇帝に取り入って、裏では汚い企みを働いていた。それに気が付けず、まんまと騙された自分を心底恨んだ。
朱王朝の膨大な展示品の中にも鏡を見つけることはできなかった。
気が付けば、館内が閑散としている。時計を見ると、閉館時刻間近だ。鏡は見つけることができなかったが、何が起きたかを知ることができた。青藍と紫遠は歴史博物館を後にする。
外に出ると、少し肌寒い。夕日がちぎれ雲を朱色に染め上げている。
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