第26話 黒装束の男
学生寮に帰るために、バス停の時刻表を確認する。ここに来る便は多かったが、夕方になると別路線にダイヤが割かれて本数が減っていた。
「バスはちょっと待てばくるけど、地下鉄で帰ろう」
「ちかてつ」
紫遠は首を傾げる。
「地下を走る電車、えっと、たくさんの人を乗せることができる長い車だよ。線路の上を走るんだ」
青藍の説明に紫遠は興味を惹かれたらしく、電車に乗ろうとはしゃいでいる。
地下鉄の乗り場は博物館の裏手の大通り沿いにある。建物の脇にある細い連絡通路を抜けると、老街の入口に出た。500年ほど前の古い街並みを残す歴史保存地区で、一帯がレトロで洒落た雰囲気に統一されている。
カフェや土産物店が並ぶ賑やかな場所だが、博物館の閉館に合わせて閉店するのでカフェの軒先にダウンライトのランタンがぽつんと下がっている他、夕闇と相まって通りは薄暗い。
石畳の老街を大通りに向かって進んでいく。
「ここも昼間だと、柊都夜市のように賑やかなんだ」
この時間帯は通行人もほとんどいないため、ゴーストタウンの様相だ。
ふと、前方に人影が見えた。点滅する古い街灯の下に男が立っている。薄闇の中に溶け込もうとしているかのような、全身真っ黒の装束を纏っている。ここ最近陽が落ちてもずいぶん温かいはずなのに、大ぶりの外套を身に着けている。フードを被っているのか、顔はよく見えない。
正直、異様な雰囲気だった。青藍は妙な奴に関わるまいと足早に通り過ぎようとするが、紫遠に強い力で腕を掴まれた。
「あの男から凄まじい殺気を感じる」
紫遠が青藍に耳打ちする。不穏な情報に、青藍は思わず身を固くする。
こちらが歩みを止めたことで、目の前の影がゆらりと揺れる。
「あのう、この先にコンビニはありましたっけ」
青藍は距離を取ったまま、黒装束の男に声をかける。黒装束の男は無言のまま立ち尽くしている。
「こんびに、って何だ」
紫遠が尋ねる。
「そうだよな、紫遠の時代には無いよな」
青藍の言葉に、紫遠は頷く。朱鴎が差し向けた追っ手かもしれない。紫遠は骨董店で見つけた盗品の腕輪を思い出す。
黒い影が動いた。頭の被り物を取り去ると、艶やかな銀色の髪が外套に流れ落ちる。薄褐色の肌に、冷酷な印象を与える切れ長の碧眼、身長は紫遠と同じくらいだろう。細身だが妙な威圧感のある男だ。唇は真一文字に引き結んでおり、感情が読めない。
「厄介だな」
紫遠が呟く。
「見た目からしてめちゃくちゃ厄介だわ。一応聞くけど、紫遠の部下じゃないよな」
青藍は青ざめている。あの雰囲気は絶対に協力者ではない。紫遠は頷く。
「お前は宗王朝の皇子、紫遠だな」
抑揚のない、低音の声。暗い光を放つ碧眼は射すくめるようにじっとこちらを見つめている。
「そうだ。お前は朱鴎子飼いの暗殺者だな」
男は何も答えない。青藍は緊張の面持ちでやりとりを見守る。
「聞いたことがある、冷酷非情な銀髪の鬼がいると。名前は月影」
紫遠がその名を口にした瞬間、月影が動いた。外套の中から鈍い光が閃く。月影は驚くほどのスピードで紫遠の間合いに踏み込んで、左腕を真一文字に薙いだ。
紫遠は青藍をかばいながら、瞬時の判断で一歩身を引いた。胸元ギリギリに月影の刃が掠る。
「ひえっ」
青藍は遅れて叫び声を上げる。月影の手には鋭い三日月を模した刃物が握られている。月影は紫遠をじっと見据えたまま、外套からもう片方の腕を出した。両手に鋭い円形の刃物が握られている。
「“月輪”の使い手か。まずいな、青藍は隙を見て走れ」
紫遠は青藍を後ろ手にかばい、逃げるよう促す。青藍は震えながら後ずさり、走り出した。月影は青藍の動きには目もくれず、殺気を込めた瞳で紫遠を見据えている。
「朱鴎の指示か」
紫遠は間合いを取りながら、月影から中心線をずらして円を描くようにゆっくりと歩く。月影も死角を取られないよう体の向きを変える。
「俺を殺すことが目的なのだろう、こんなところまで追ってくるとは見上げた執念だな」
紫遠は肩を竦める。朱鴎の暗殺部隊は忠誠心が尋常ではない。指令のために死をも厭わぬ覚悟だ。あの男にいったいどうしてそこまで忠義を誓うことができるのか、不思議でならない。
「俺を殺して、元の時代に戻る方法はあるのか」
月影はその問いに、一瞬目を細める。
「戻る方法などない」
未知の世界へ飛ばされ、生きて帰れるかもわからぬ儀式を行ってまで追ってくるという執念が恐ろしい。紫遠は思わず息を呑む。
紫遠が気圧された瞬間、隙をついて月影が飛び掛かってきた。両手に装着した月輪を振るう。それはまるで舞を踊るような優雅な動きにも見えるが、指先まで凄まじい殺気が漲っている。丸腰の紫遠はそれをかろうじて避けるしかない。右手を振り上げたと思えば、紫遠が避けた隙をついて下段から薙ぐ。
紫遠は壁に追い詰められていく。月影が唇を歪めてニヤリと笑う。壁を背にした紫遠に月影が鋭い突きを放つ。紫遠は傍に駐車してあったスクーターの座席に飛び乗り、そこから突き出た屋根の破風を掴み大きく飛躍する。月影の背中に蹴りを入れて、石畳に着地した。
振りをつけた強烈な蹴りを背中に食らい、月影は顔を歪める。怒りを滲ませて振り向き、間髪入れず月輪で薙ぐ。紫遠はのけぞるが、鋭い刃にシャツが切り裂かれる。
「おわっ」
紫遠が肝を冷やす間にも、月影は攻撃を加速する。紫遠が手出しする隙を全く与えない。勢いに押され、後ずさる一方の紫遠は石畳に足を取られ、その場に尻もちをついた。目の前に非情な暗殺者が迫ってくる。
「待て、そもそも俺は丸腰だ。お前は卑怯だ」
尻もちをついたままの紫遠が月影を指さして叫ぶ。その態度はやけくそのようにも見えた。
「俺はただ命令を遂行するだけ、どうとでも罵るがいい」
月影は表情を変えず、紫遠を冷たい色の瞳で見下ろしている。振り上げた月輪が街灯の白い光を反射してギラリと光る。
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