第32話 任務の理由

 冬波の運転する小型トラックの助手席に座る月影は、未だ頭痛に苛まれていた。柊都映画城へ来る前に冬波と共に眼鏡店へ行き、近視用の眼鏡を作るために視力を測ってもらった。今日の夕方渡しになると言われたのに、月影は待てないと駄々をこねて強引に適当な度数の眼鏡を借りてきたのだった。


 人生初めての眼鏡に月影はひたすら感動した。驚くほど視界が明瞭になり、これがあれば勝てると息巻いていた。しかし、慣れない眼鏡をかけたまま暴れ回ったため頭痛と目眩を併発し、今に至る。冬波は気の毒そうに項垂れる月影をチラリと見やる。

「だから言ったのに」

 冬波は呆れている。月影は唇をへの字にして、冬波を恨めしそうな目で睨む。


「ところで、月影はどうしてあの兄ちゃん、紫遠っていうのか、を追ってるの」

 冬波が疑問に思っていたことを率直に訊ねる。冬波は月影が何者かを知らない。

「紫遠の息の根を止める、それが任務だからだ」

 月影は車窓に流れていく砂漠をじっと見つめている。眼鏡を外した今、ぼんやりと目に映る荒涼とした砂の山はもといた宗の時代の景色と何ら変わりはないように見えた。


「紫遠は悪い人には見えないよ」

 冬波は月影が膝をついた時、彼を守るために咄嗟に紫遠の前に立ちはだかった。紫遠を見上げて睨み付けてやった。その時、紫遠も真っ直ぐに冬波を見つめていた。とても綺麗な、澄んだ目をしていたことに驚いた。

 冬波は幼い頃に両親を失い、お世辞にも真っ当な商売をしているとは言えない叔父に育てられたため、汚い大人たちをたくさん見てきた。人の目は人生を映す。冬波には紫遠が悪い人間とは思えなかった。


「そんなことは関係ない、任務は絶対だ」

 低く、感情の籠もらぬ声。冬波には月影が自分にそう暗示をかけているようにも思えた。

「月影の上司は良い人なの」

 思ってもみなかった質問に、月影はしばし考える。所属する暗殺部隊の長は外交大臣の朱鴎だ。朱鴎が良い人かどうかなんて疑問に思ったことは無かった。ただ、地面を這いつくばり、泥水を啜るような生活から掬い上げてくれた恩だけはある。


「お前の叔父、幽風は“いい人”なのか」

 月影に逆に質問され、冬波はうーん、と唸りながら考え込む。

「叔父貴は表向き骨董店を営んでるけど、盗掘をして古代の遺物を売りさばいて生計を立ててる。それはいいことだとは思わないけど、叔父貴は貧乏人から金を巻き上げるような真似はしない。金持ちの好事家や、博物館を相手に商売するんだ。それに、俺のことも育ててくれてる。出世払いだぞ、っていつも言われるよ。つまり、悪い人じゃない」

 こんな少年でも、善悪について考えている。月影はこれまでただ下された命令を疑うことなく遂行してきた。自分の時代の冬波もそうだ。月影に心酔し、ただ命令に忠実に動いている。

 月影は何か思うところがあったのか、黙り込んで再び窓の外を眺め始めた。


 ***


 柊都中央駅にバスが到着したとき、時計は午後四時をまわっていた。紫遠が駅前にあるカフェのメニュー看板を見つけ、ここに行きたいとせがんだので休憩することにした。最初に商品を注文して会計を済ませるシステムだ。ショーケースに並ぶ美味しそうなパンやケーキに興味津々だ。

「美味しそうなものばかりだ」

 紫遠は子供のように目を輝かせている。このような若者が集う洒落たカフェは食堂よりも値段が張る。正直、なけなしのバイト代が飛ぶのが痛い。しかし、ショーケースにへばりつく無邪気な紫遠の姿を見ると、青藍はここでケチケチするのも無粋だという気分になってきた。


「さっきは頑張ったからお菓子と飲み物、ひとつずつおごってやるよ」

 月影と死闘を繰り広げたばかりだ、労ってやるのも悪くない。

「本当か、どれにしようかな」

 紫遠はショーケースを嬉しそうに覗き込む。若い女性店員がその様子を微笑ましく見つめている。


「このアップルパイは焼きたてですよ」

 女性店員の聞き慣れない言葉に紫遠が首を傾げる。

「りんごの焼き菓子だ」

 このパターンに慣れてきた青藍がすかさずフォローを入れた。焼き菓子はアップルパイに決まった。紫遠はハートの文様が連なったラテアートに興味を示した。

「これはコーヒーと言って、苦いんだぞ」

 紫遠の時代にはコーヒーなど存在しない。青藍は忠告したが、紫遠はカフェラテに挑戦することにした。青藍はスコーンと紅茶を注文する。


 トレイを持ってテーブルについた。紫遠は頬杖をついてラテアートをまじまじと見つめている。

「うわっ苦い」

 満を持してカップに口をつけた紫遠は、その苦さに思わずカフェラテを吹きそうになった。目を丸めて崩れかけたラテアートを見つめている。

「今の時代はこんな苦いものを飲むのか」

 紫遠は初めての味覚にカルチャーショックを受けている。

「その香りや苦みがいいんだ。それに、飲むと目が覚めるから、徹夜するときには重宝しているよ。ちなみにそのカフェラテは牛の乳が入っていて苦さが中和されている。普通のコーヒーは真っ黒で、もっと苦いんだ」

 青藍の説明に、紫遠は青ざめる。黒い飲み物とは、墨汁か何かだろうかと想像を巡らせている。


 紫遠はアップルパイが気にいったらしく、サクサクのパイ生地にシナモン風味のりんご果肉、カスタードクリームがマッチしており、一口食べるごとに満面の笑みを浮かべていた。

「こんな美味しい菓子、食べたことがない」

 オーバーアクションでアップルパイに感動する紫遠の様子を見て、隣のカップルがクスクス笑っている。

 紫遠はカフェラテをちびちびと飲み始めた。だんだん苦みに慣れてきたのか、飲み干す頃にはこの風味が良いと誇らしげに胸を張っていた。いちいち感情表現が豊かな紫遠の様子がおかしくて、青蘭は思わず笑みをこぼす。

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