第19話 真実を知る覚悟

 美術史の講義は、古代から現代までの流れを知るというカリキュラムになっている。紫遠は居眠りをして大人しくしていることも分かったので、青藍はいつも座る一番前左よりの席に陣取った。


 五分遅れで散髪が滞っている髪を振り乱した教授が資料を抱えて慌ただしく講義室に駆け込んできた。パソコンにUSBメモリをセットし、スライドの準備をする。スライドには絵画が映し出された。

 紫遠がスライドの映像を指さし、嬉しそうな顔で興奮している。


「落ち着け、あれはプロジェクターといって、映像を映す装置なんだよ」

 青藍が興奮気味の紫遠をなだめる。一番前の席で騒いでは教授に睨まれてしまう。見たこともない現代の装置に驚いているのかと思いきや、そうでもないようだ。

 紫遠は周囲の学生たちが静かに講義を聴く姿を見て、落ち着きを取り戻した。


「あの絵、見たことがある」

 紫遠の言葉に、今度は青藍が椅子から腰を浮かせて驚いた。息の呑む音が響いて、青藍は思わず自分の口を塞ぐ。プロジェクターには霞に煙る険しい山に朝日が差し、枝に鶯がとまる春の風景画が投影されていた。未熟ながらダイナミックな遠近法と霧の描写が秀逸だと評価が高い「早春図」だ。有名な作品で、古代を語るときにはいつも引き合いに出される。


「う、嘘だろ」

 青藍は目を見開いたまま、顔を引き攣られている。

「嘘なものか。俺の父が絵師に命じて描かせたものだ。献上にやってきたときに一緒に見たよ」

 紫遠はでたらめを言っているようには思えなかった。

「この絵は古代朱王朝の有名な絵画ですね。皆さんも教科書などで一度は見たことがあるでしょう」


 朱王朝、と聞いて紫遠は恐ろしい剣幕で、ガタッと派手な音を立てて立ち上がる。教授が怪訝な表情で紫遠を見やる。青藍は慌てて紫遠を引っ張って椅子に座らせた。

 スライドは次の作品に遷移する。「桜花宮女図」だ。桜の花の下で語らう宮女たちを描いた作品で、繊細な髪の描写や、宮女の生き生きとした表情、服の皺の表現が当時にしてはリアリティがあると教授が見どころを解説している。


「朱王朝は古代に分類されながら、絵画のみならず見事な芸術作品が数多く保存されている。これは政治が安定し、文化が花開く土壌があったことを示している。三〇〇年で終焉を迎えた前王朝の宗は立て続く戦乱の時代で、世は乱れ人々は疲弊していた。そんな中で豊かな芸術は生まれない。あったとしても、貴重な遺物は戦火に焼かれてほとんど失われてしまった」

 教授の説明を聞きながら、紫遠は握り絞めた拳を震わせる。その顔は耳まで真っ赤になるほど怒りを漲らせていた。教授は歴史の教養だが、と続ける。


「宗の事実上最後にあたる十一代皇帝宗緑永は、失策を繰り返すばかりで異民族の侵入を許し、国土を狭めていった。国民に重税を課し、宮廷に富を集約した。それを憂えた外交大臣の朱鴎が皇帝を廃し、即位したのが朱王朝の始まりだ」

 紫遠は我慢の限界とばかりに勢い良く席を立つ。先ほどから不穏な態度を取っていた紫遠に、教授も注目する。


「何だね、君は。トイレに行きたいなら行けばいいぞ」

 教授はずれた眼鏡を人差し指で持ち上げながら、皮肉たっぷりに嫌みを言う。

「さっきから聞いてりゃ、嘘ばっかりだ。宗緑永は厳格だが、情け深い皇帝で、民に慕われている。朱鴎は小物だ。そんな男が皇帝だなんて、伶(れい)河(が)の水が全て砂になったとしても、あり得ない」

 紫遠は啖呵を切る。張りのある声はマイクも無いのに講義室に鳴り響いた。教授は一瞬気圧されたが、他の学生が見ている前で言い負かされてはならないという意地がある。青藍はとんでもない展開に、白目を剥いて今にも気絶しそうだ。


「さっきの早春図も宗王朝の絵師によって描かれたものだ。あんたはその絵の山を崑崙山(こんろんさん)と言っていたが、宗の都から南下したところにある芙蓉山(ふようさん)だぞ。何も知らないくせに、いい加減なことを言うな」

 紫遠は教授を指さして叫ぶ。青藍は紫遠の腰に縋り付いてやめるよう訴えるが、紫遠は教授を罵倒し続ける。


「そ、そんな学説は聞いたことがない。授業を妨害するなら出て行け」

 血管が切れそうなほど取り乱した教授がマイクを使って叫んだ。青藍は紫遠の腕を強引に引っ張って、逃げるように講義室を出る。


 中庭まで走り、青藍は息を切らしながら紫遠を睨み付ける。

「なんだよ」

「まったく、講義の邪魔をするなんて、お前を連れてきたのは間違いだった」

 青藍は唇をへの字に曲げて大きなため息をつく。紫遠は冷静さを取り戻し、バツが悪そうに頭をかいている。青藍と紫遠は樫の木陰のベンチに腰を下ろした。春の穏やかな風が頬を撫で、木漏れ日が芝生の上で揺らめいている。


「あのオヤジ、偉そうに嘘ばかり言ってさ。宗王朝が三〇〇年で滅びるなんて、狂言にも程がある」

 隣で怒りをまき散らす紫遠を、青藍は複雑な表情で見つめている。

「紫遠、あのな」

 青藍は真剣な眼差しを向ける。言いにくそうに、一度足元を見つめて、また顔を上げた。

「宗王朝は、蒼龍三〇年で幕を閉じる」

 紫遠はゆっくりと瞬きをして、青藍の顔を見つめる。その琥珀色の目は美しく澄んでおり、曇りはない。ただ、心からの憐れみが滲んでいた。紫遠は愕然とする。青藍の歴史の知識と、彼の目に宿る光には嘘偽りが無い。宗王朝は自分が消えた二年後に滅びる。そして、あの大臣朱鴎が帝位につく。これは決められた過去の出来事なのだ。紫遠は肩を震わせて、慟哭する。これ以上厳しい現実があるだろうか。青藍は彼に真実を伝えたことを後悔し、唇を噛む。


「青藍、教えてくれ。俺が消えてから一体何が起きたんだ」

 紫遠は顔を上げて青藍の肩を激しく揺さぶる。その目は真っ赤に充血し、涙が滲んでいる。青藍は弱々しく首を振る。

「そんなに酷い出来事があるのか」

「そうだ」

 青藍はきっぱりと断言する。紫遠はひどく動揺し、深く俯いた。膝の上で握り絞めた拳が小刻みに震えている。父や母、燈迦、そして青蘭の顔が浮かんではぼやけていく。彼らは一体どうなったのだろう。自分は遠い未来で美味いものを食べて、寝て、呑気に過ごしている。それでいいのか。紫遠はぶんぶんと頭を振る。ジャケットの袖口で涙を拭い、もう一度顔を上げる。その顔には覚悟の色が見えた。


「青藍、俺がどうしてここにいるのか、真実を知りたい。そして、失われた時間を取り戻す」

 真っ直ぐな黒曜石の瞳で見つめられ、青藍は思わずたじろぐ。その強い瞳に、皇帝の矜持を垣間見た。

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