第18話 本当の夢

「楽しそうだな」

 声をかけられて振り向けば、友人の史庵が手を振っていた。彼女の春燕も一緒だ。薄手のジーンズ地のジャケットに、白いシャツ、ピンク色のスカートの春らしい装いだ。

「あ、この間柊都映画城にいた」

 春燕はティッシュで鼻水をかんでいる紫遠を見て、驚いている。

「また会えないかしら、と思ってたのよ」

「こいつ、あの後からずっとこの調子だよ。あんたの熱烈なファンみたいだよ」

 史庵はお惚気によほど辟易しているらしく、おどけながら肩をすくめる。ファン、という言葉の意味が分からず、紫遠は首を傾げている。


「ねえ、お昼一緒に食べましょ。お話がしたいわ」

 紫遠に興味津々の春燕の提案で、学食でランチをすることになった。セルフサービスで好きな食材を皿に盛り、テーブルについた。紫遠は食欲旺盛で、お盆いっぱいに並べた皿に山盛りよそってきた。

「紫遠はどこの出身なの」

「柊都だよ」

「じゃあ、地元なんだね」

 春燕も史庵も、紫遠が古代からやってきた宗の皇子だとは知らない。そんな話をしても信じないだろう。青藍だって未だに狐にでもつままれたような気分だ。


「ここの大学の学生なのか、何を専攻してるの」

「何の勉強が得意なのかってことだよ」

 史庵の質問の意味が分からず、眉根をしかめる紫遠に青藍が助け船を出す。

「俺は勉強は苦手だ。武芸は得意だぞ」

 今度は史庵が眉をひそめた。

「武芸って槍術のこと」

 春燕は面白がって訊ねる。

「ああ、剣術も体術も軍の中で俺の右に出るものはいない。でも槍が一番手に馴染む。一騎駆けをしながら槍を振り回すのは爽快だ」

 得意げに胸を張る紫遠に、青藍は頭を抱える。


「紫遠が言っているのは演劇の話か」

 史庵が訝しげな顔で青藍に耳打ちする。

「ああ、そうだよ。紫遠は役者の卵だ。時代劇の役に没頭して時々こうなる。古代史を専攻しているから、余計に傾倒しているんだ」

 青藍は説明が面倒なので、適当にごまかしておくことにした。ああ、なるほど、と史庵は合点がいったようだ。

「私はね、美術史を専攻しているのよ。朱王朝の絵画に惹かれて研究したいと思ったの」

 春燕はあれやこれやと好きな作家を羅列している。朱王朝、隣国にも聞き覚えの無い国名だ。紫遠はそのことに気を取られ、話が頭に入らない。1800年も時代が移りゆけば、王朝の変遷も致し方無しだろう。とすれば、宗王朝はいつまで続くのだろうか。


「俺は文学部で古典を専攻してる。朱王朝の時代の詩だよ」

 史庵の話によれば、朱王朝の時代に詩の体系が確立し、有名な詩人が多く生まれたという。紫遠はそれを聞いて面白くない。宗王朝にも素晴らしい芸術家や詩人は多い。

「我が国にも素晴らしい文人がいるぞ」

 紫遠は何やら対抗意識を燃やしている。

「我が国って、宗だよ。彼は宗王朝を特に研究しているんだ」

 青藍が冷や汗を流しながら無意味にも思えるフォローを入れる。


「宮廷には天井に届くほどの巨大な龍の絵がある。鱗は金色で、一枚一枚に金箔を張り付けてあるぞ。それに、目には真っ赤な石榴石が埋め込まれている」

 紫遠のまるで見てきたようなリアルで生き生きした表現に、春燕と史庵は引き込まれている。それに気を良くした紫遠の語りは、次第に熱を帯びていく。

「俺は凱旋用の馬具を作ってもらった。金箔押しの緻密な文様に宝石がいくつも散りばめられて、陽の光に輝く様は目が眩むようだぞ。それに、月の初めには父上が宮廷に詩人を集めて歌会を開催している」

 春燕はすごいすごい、と喜んでいる。父上とはもちろん宗皇帝のことだ。


「宗国についてよく知らなかったけど、宮廷文化が発展していたんだね。庶民はどういう暮らしをしていたのかな」

 何気ない史庵の言葉に、機嫌良く宮廷芸術について語っていた紫遠は、はっとして黙り込む。

「庶民の暮らし、そういえば、よく知らない」

 紫遠はそのことにことのほかショックを受けているようだった。

「貴族の暮らしは絵画や文献で見ることはできるけど、庶民の暮らしはなかなか記録に残っていない。断片的に探るしかないから難しいよ」

 青藍がフォローを入れる。紫遠は皇帝の子だ。宮廷で暮らし、戦に出て行く生活では、庶民の暮らしを知る機会も無かったのだろう。


「青藍は歴史を学んでいるのか」

 青藍は歴史に詳しそうだ。紫遠の言葉に、青藍は曖昧な笑みを浮かべて首を振る。

「違うよ、教育学部なんだ。学校の先生になるんだよ」

 それを聞いて、紫遠は驚いている。青藍は歴史学者になるのかと思っていた。


「うちは母子家庭なんだ。本当はすぐに働いた方が家計の助けになるけど、大学にも無理して通わせてもらっている。だから、安定した教師の仕事に就くために勉強しているんだよ」

 紫遠は青藍の境遇を知り、友人の青蘭を思い出した。彼も庭師だった父を流行病で亡くし、僻地に住む母へ仕送りをしている。顔には出さないが、人一倍苦労をしてきたことを知っている。


「本当は考古学者になりたいんだよね。青藍はすごく詳しいもん」

 春燕は青藍の知識量にいつも驚かされるのだと言う。史庵もそれを認めている。

「いいんだよ、そっちは趣味で」

 青藍は気恥ずかしそうにゆるゆると頭を振る。考古学なんて、金持ちの子息子女がコネで入り込む世界だ。それに最低限大学院まで進まないと道は開かれない。今の生活で精一杯の青藍には儚い夢のような話だ。それに、早く母親に恩返しをしてやりたい。

 そのためには真っ当で安定した仕事、堅実な父がそうだったように、教師になることが近道だと思っていた。


「そろそろ次の授業だ」

 青藍は腕時計を見て席を立つ。午後一番にあるのは美術史の講義だ。教育課程に必要な教養科目のひとつになる。春燕と史庵もこの講義を選択しているが、これから映画を観にいくので出席しないらしい。青藍は二人に出席確認の偽装を頼まれた。

「俺は民を守ると言いながら、彼らの生活を何も知ろうとしなかったのか」

 紫遠は先ほどのことがよほどショックだったらしく、明らかにしょげている。

「これからたくさん学べばいいよ、さあ授業に遅れる」

 どんよりと暗い影を落とす紫遠の腕を引いて青藍は講義室へ向かう。

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