第17話 桜の記憶
妙な息苦しさにうなされて青藍は低い唸り声を上げる。まるで石を抱かされているように、胸元にずっしりと重いものがのしかかっている。
「く、苦しい」
青藍は重圧から逃げるように寝返りを打とうとする。しかし、胸にのしかかる重しのせいでそれは叶わない。青藍は眉間に皺を刻みながらうっすらと目を開けた。胸元に太い腕が乗っていることに気が付いて、思わず飛び起きる。
「こ、こいつ」
隣で眠っている紫遠が両手両足を広げて大の字でいびきをかいていた。青藍は大きなため息をつく。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。青藍が腹いせにカーテンを思い切り開けると、紫遠は眩しさに顔をしかめた。
「起きろ、朝だぞ」
紫遠はまだ寝足りないのか、ふとんを巻き込んでごろんと転がった。青藍は手を腰に当てて容赦無く大声で叫ぶ。
「敵襲だっ」
紫遠は反射的にふとんを投げ捨ててベッドの上に立ち上がった。目を見開いて左右を警戒している。そして、青藍と目があった。
「嘘だ」
青藍はふてぶてしくそれだけ言って、洗面所に向かった。紫遠は脱力してベッドの上で胡座をかく。
「全く、何て奴だ」
起こし方まで青蘭と同じだ。紫遠は小さな笑みを浮かべる。
今日は大学の講義がある。この時代で右も左も分からぬ古代人の紫遠を一人で部屋に残しておく訳にはいかず、服を着替えさせて学生食堂へ連れていった。
大学の学食は学生証があれば二割引で、ボリュームも申し分無い。栄養バランスも良いし、時間があるときは利用するようにしている。紫遠は遠慮無く大盛りに盛ってぺろりと平らげてしまった。
「この時代の飯は最高だな。料理人を連れて帰りたい」
肉まんひとつにいちいち感動している。紫遠の時代と比べると味のバリエーションが多く、食材加工技術も桁違いに良いはずだ。宮廷で高級料理を食べていた皇子が、庶民の食べ物に感激する姿を青藍は興味深く眺めている。
紫遠は甘味のヨーグルトが気に入ったらしく、いそいそとおかわりをしていた。
授業は講義形式なので、潜り込みも可能だ。
「これから授業だから、大人しくしていてくれよ」
青藍は紫遠の鼻っ面に人差し指を突きつけて釘を刺す。
「青蘭は学生なのか」
紫遠は青藍について講義室へ入る。そこはすり鉢状に椅子が並ぶ天井の高い部屋だった。その壮大な風景が珍しいようで、紫遠は周囲をきょろきょろ見回している。
女子学生がヒソヒソ話をしながらこちらをチラチラ見ていることに気がついた。紫遠はモデルと言って良いほど眉目秀麗、長身でスタイルも良い。いちいち注目を集めてしまうのだ。
青藍は目立たぬように一番後ろの端の席についた。この授業は社会学だ。教授の話が始まって、最初の一〇分ほどは聞き耳を立てていたが、紫遠はそのうち居眠りを始めた。この授業は確かに退屈だ。後ろから見ればよくわかるが、講義室の半分は居眠りをしている。
青藍は学費を奨学金とアルバイトで賄っていることから、親の金で大学に来てこうして怠けている人間たちを見るとやるせない気持ちになる。幸い、紫遠はいびきも立てずに静かに寝てくれたので、授業には集中することができた。
次の授業は午後からだ。講義棟の間にある中庭で休憩することにした。ちょうど桜の時期で、芝生の上で学生たちが歓談している。青藍と紫遠は桜の下の芝生に腰を下ろした。
「この時代でも花は咲くんだな」
紫遠は満開の花を咲かせる桜の木を見上げ、柔和な笑みを浮かべる。薄紅の花の向こうには沁みるような青空が広がっている。がさつな男だと思っていたが、こんな感傷的な姿を見せるとは、意外だった。
紫遠は芝生に脚を組んでごろりと寝転がる。陽の光を受けた大地の温もりが背中に心地良い。よくこうして宮殿の見える丘の上で雲を眺めていた。となりには青蘭がいて、編纂している小難しい歴史書の話をしてくれた。それが子守歌になっていたことは青蘭には内緒だ。
「青蘭もお前のように勉強熱心だよ。子供の頃から恵まれた教育を受けてきた貴族には負けたくない、といつも息巻いていた」
青藍は隣に寝転がり、空を見上げる紫遠の顔を見やる。紫遠は眩しさに目を細め、口元を綻ばせている。
春の気まぐれな風に舞う桜の花びらがふわり、ふわりと落ちてくる。紫遠は鼻の上に落ちた花びらに息を吹きかけた。花びらはまた風に舞い、青い空に溶けてゆく。
「俺が急にいなくなって、青蘭は心配しているだろうな」
感傷に浸る紫遠を青藍は複雑な想いで見つめる。歴史書によれば、青蘭は紫遠を暗殺したことになっている。彼がこの時代に意図せず飛ばされたこと、これほどまでに信頼する青蘭という男が彼を殺害したこと、腑に落ちないことばかりだ。何者かの悪意を感じずにはいられない。
「きっと心配してお前を探しているだろうな」
「へっくしょい」
しょげている紫遠に同情して油断していた青藍は、紫遠のくしゃみをまともに食らってしまった。
「まったく、このハナ垂れ王子」
紫遠の派手なくしゃみはまだ止まらず、鼻水が垂れさがっている。青藍は呆れながらポケットティッシュを押しつけた。
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