第16話 路地裏の家
月影は幌付き小型トラックの荷台に背中を預けていた。洞窟を出発してしばらくは悪路に乱暴に身体を揺さぶられたが、いつしか揺れは少なくなってきた。鋭い三日月を模した愛用の武器“月輪”で幌を引き裂くと、煌びやかな光が飛び込んできた。
光は赤、青、黄色と様々な色味を帯びている。目を凝らしてみれば、光は建物の縁を彩っているようだ。見上げるほど高くランタンが掲げられ、白い光がいくつも通り過ぎていく。
「まさに異界だ」
月影は思わずひとりごちる。
トラックが停止した。幽風が荷台から降りるよう促す。月影は荷台から軽やかな身のこなしで飛び降りた。ここは狭い路地のようだ。ぽつぽつと明かりがついているが足元が覚束ないほど薄暗く、先ほど見た華やかさは微塵も感じられない。
「今日はもう遅い。俺たちは家に帰る。あんたはどうする」
幽風は路地の奥の古びた建物を指さす。
「俺に帰る場所はない」
この男、かなりの変わりものだ。格好も奇妙だが、言動もどこか浮世離れしている。スマートフォンを知らないし、トラックに乗せると荷台の小窓から運転席を覗き込み、幽風が運転する様子をしばらく凝視していた。まるでこれらのものを見るのが初めてのような反応だ。
「あの、俺たちの家に来るかい」
冬波が躊躇いがちに月影に尋ねる。幽風の顔を見上げると、気が進まないようだが小さく鼻を鳴らした。幽風の癖で、これは了承のサインだ。冬波はホッと安堵する。
「そうしよう」
月影は頷く。ここは異界だ。誰かと行動を共にするのは気が進まないが、彼らから情報を得るには好都合だ。
幽風と冬波は古びた三階建てのアパートの錆の浮いた階段を上がっていく。見たことのない構造の建物だ。月影は足元の階段が鉄であることに驚いた。鉄は貴重だ。ここでは庶民の住む住居の階段に使われている。
「さあ入って」
冬波に案内され、部屋に足を踏み入れる。不意に目の前が明るくなり、月影は思わず腕で光を遮る。天井からぶら下がった球体が煌々と輝いている。部屋は雑多に物が置かれていた。おそらく、ここにはこの2人だけが住んでいると思われた。片付ける人間がいない部屋だ。
幽風はビールを手にして長椅子に腰掛けた。月影は壁を背にして立ち、静かに部屋を観察している。プシュッと小さな破裂音が聞こえ、月影は警戒して月輪を手に身構える。
「仕事のあとの一杯は最高だ」
幽風がビールを傾けている。筒状の容器には飲料が入っているようだ。
「腹が減ったな、デリバリー頼んでいい」
「おう、そっちのあんちゃんのも頼んでやれよ」
幽風は顔を真っ赤にして上機嫌だ。彼が飲んでいる飲料は酒だと理解できた。
「名前、教えてよ」
冬波は壁に背を預け、陰気な顔で腕組をしている月影を見上げる。
「月影」
「月影は何食べたい」
冬波はデリバリーのメニュー表を月影に手渡す。月影は彩色された紙が珍しいようで、しばらく手触りを確認していたが、メニュー表を目を細めて至近距離で眺め始めた。
「お前に任せる」
メニューを見るのが面倒になったのか、月影はメニュー表を冬波に返した。冬波はスマートフォンでデリバリーの注文をしている。
月影は壁にかかっている紙の数字の羅列に目を留めた。
「これは暦か」
「そうだよ」
おかしな質問をするものだと冬波は不思議に思う。
「この数字は何だ」
月とそれに対応する日は同じようだ。しかし、この2022という数字の意味がわからない。
「2022年。それは今年のカレンダーだ」
「2022年だと」
月影はカレンダーを震える指でなぞる。月影は興奮気味に冬波の肩を掴む。
「今の皇帝は誰だ」
「え、皇帝って、そんなのいないよ」
「皇帝がいないだと、そんなはずは無い」
月影の鬼気迫る表情に、冬波はたじろぐ。さすがに心配した幽風が月影の腕を掴んで制止する。
「落ち着け、冬波の言う通りだ。今は皇帝なんていない」
月影は幽風の腕を乱暴に振り払う。ここは異界などではない、そんな可能性が月影の脳裏に浮かぶ。2022年は常識で考えると、皇帝の即位している年数だ。しかし、皇帝はいないという。それでは、この数字は一体。
「蒼龍28年はどう換算できる」
月影は冷静に訊ねる。
「蒼龍はよく使われる元号だ」
「宗だ」
月影の言葉を聞いて、冬波がスマートフォンで年号を調べる。
「宗の蒼龍28年は公歴でいえば、210年だね」
ここは1800年後の世界なのだ。あの鏡の儀式により時間を越えたのだ。これですべてが繋がった。元の時代に未練は無い。ただ主の指令どおり紫遠を殺す、それだけだ。月影の碧眼が昏い光を放つ。
ピンポン、とチャイムが鳴り冬波がバタバタと玄関に向かった。デリバリーが到着したようだ。テーブルの上に散らかる書類や雑貨をごっそりと横に避けて、料理を広げる。食欲をそそるスパイスの香りが部屋に満ちる。
水餃子、野菜たっぷりの焼麺、きくらげと卵の炒め物、肉を挟んだパン、羊串に鳥の足。
「お前、頼みすぎだぞ」
幽風は呆れている。
「いいじゃない、お客さんが来ることなんてないだろう」
冬波は割り箸を月影に手渡した。
食には興味が無かった。生きるために食べる、それだけだ。しかし、今は多少腹が減っている。月影は食べやすそうなパンに手をつけ、かじりついた。次の瞬間、思わず目を見開く。パサパサかと思った生地はふかふかで、ほのかな甘みがあった。スパイスが効いた肉は香ばしく、厚みがあり柔らかい。
水餃子は皮がもちもちで、羊肉と芹を混ぜたあんが入っている。似たような食べ物はあるが、絶妙に酸味のあるタレは初めての体験だった。ずいぶん気に入ったのか、月影は黙々と食べている。
「お腹、減ってたんだね」
冬波が月影の見事な食べっぷりを嬉しそうに眺めている。幽風は甘辛く味付けされた鳥の足をツマミに新しい缶ビールを開けた。
***
「冬波はいくつだ」
月影は隣の部屋の粗末なベッドで寝息を立てている冬波をちらりを見やる。
「あいつは14才、学校には行ってねえ」
風幽はタバコの煙をヤニのこびりついた天井に向かって吐き出した。
「あいつの両親は貧民窟の大規模な火事で焼け死んじまった。弟は気の良い奴だった。俺は女房に愛想つかされちまってな、やもめだから仕事を手伝わせながら面倒を見ているのさ」
「盗掘の仕事をか」
「そうだ、ここで地べたを這いつくばって必死に生きても、のたれ死ぬだけだ。俺は夢を追いかけてるんだよ」
幽風は悪びれもせずに黄色い歯を見せてにやりと笑う。年端も行かぬ子供が年長者の命で盗みを働くことは、貧民窟ではよくあることだ。そんな風習がこれほどものが豊かになった1800年後の時代にも残っている。
「この辺りの地図はあるか」
月影は話題を変えた。幽風は立ち上がり、戸棚の本をかき分けて一枚の地図を広げた。
「今はもう地図アプリだなんだで行きたい場所がすぐにわかるけどな、俺はこういう一枚地図ってのが好きなんだよ」
テーブルいっぱいに広げられた紙の表には街の詳細な地図が記されていた。その緻密さに月影は思わず小さく唸る。顔をすれすれまで近づけて、地図に集中し始めた。
「じゃあ、俺は寝るから適当にしてくれ」
幽風は自分の部屋に引き揚げていった。
この街で紫遠は何をしようとするか、それが分かれば行き先が掴める。
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