第22話 大逆の罪

 ぴちゃん、ぴちゃん、と遠くで水が跳ねる音が聞こえる。青蘭は朦朧とする意識の中で、天井の石壁の隙間から差し込む微かな太陽の光が移りゆくのをずっと見ていた。

 喉が渇き、唇はかさかさにひび割れている。足元に粗末なむしろが敷かれているが、固く冷たい石の感触に身体の体温がみるみる奪われていくような気がする。


 突如、発狂した人間の叫び声が聞こえた。光りの当たらぬ地下牢で、人間性を失ってしまったに違いない。外に控える兵士はそれに慣れているのか、動揺する様子は無かった。

 砂漠の洞窟で閃光に包まれて紫遠は消えてしまった。悪い夢ならすぐに覚めて欲しい。もし、現実ならば自分も消えてしまいたい。涙はもう枯れ果ててしまった。


 石段を降りる複数の足音が響く。炎の影が壁に反射して、不気味に揺らめいている。青蘭の捕らわれた檻の前に、大臣の装束を纏った男が背筋を伸ばし、礼儀正しい様子で立ち止まる。松明の炎が映し出すその顔は、外交大臣の朱鴎だった。痩身でひょろ長い男と、太鼓腹の文官を連れている。二人は竹簡を手にしていた。太鼓腹の男が、竹簡を広げて恭しく読み上げる。

「お前は宮廷司書官、青蘭で間違い無いな」

「はい」

 青蘭は力無く顔を上げた。

「青蘭、お前には皇帝の長子であり、軍の最高位である紫遠様殺害の容疑がかかっている」

 太鼓腹の言葉に、青蘭は身を起こし反射的に檻にしがみついた。腕に繋がれた鎖が重く、よろめきそうになる。


「そんなはずはありません。紫遠様は私の目の前で消えたのです」

 青蘭は頭をゆるゆると振りながら、からからの喉を振り絞って叫ぶ。しかし、思ったほどに声は出なかった。

「お前が殺した。それが事実だ」

 冷ややかに言い放ったのは、大臣の朱鴎だった。朱鴎は痩せの文官に何かを書き取らせた。これは裁判なのだ。認めてもいない罪で断罪されるのだ。

「お前は皇帝の長子を殺害した大逆の罪で、公開斬首が決定している。それまでせいぜいここで悔いるがいい」

 朱鴎は冷酷な笑みを浮かべ、檻にしがみつく青蘭を見つめる。青蘭は屈辱と怒りで折れんばかりに奥歯を噛みしめる。唇の端が切れ、温かい血が流れ落ちた。


 用件は済んだとはばり、朱鴎は踵を返す。両脇の文官は黴と饐えた匂いに顔をしかめ、袖で鼻を覆いながら腰巾着のようについて行く。青蘭は朱鴎の背中を怒りに打ち震えながら睨み付ける。ふと、朱鴎が何かを思い出したように振り向いた。

「お前が女なら遊んでやってもよかったものを」

 下卑た笑みを口元に浮かべ、そのまま階段を上っていった。青蘭はその場に脱力し、檻に何度も頭を打ち付ける。ガンガン、と檻が音を立て、それに立腹した見張りの兵が槍の石突で青蘭の腹を突いた。青蘭は固い石の上に転がった。青蘭は横に伏したまま、小さく震えている。

 朱鴎はかねてから紫遠を煙たく思っていた。彼がいるときにはおべっかを使っていたが、軍を一手に掌握する紫遠は邪魔な存在だったに違いない。青蘭は朱鴎に強い疑念を持ち始める。


 ***


 宮廷の敷地内に与えられた屋敷で、朱鴎は祝杯を上げていた。肌が透けるほどの薄絹を纏う遊女が酌をする。

「今夜は一段と嬉しそうですわ、朱鴎様」

 女の一人が形の良い柔らかな胸を朱鴎の腕に押しつける。朱鴎はニヤリと笑い、女の頬を長い舌で舐め上げる。きゃっと小さな悲鳴を上げて女は嬉しそうに朱鴎に抱きつく。

「そうだ、もうじき俺はこの国の実権を握る」

「今以上に権力をお持ちになるのですか」

 彼は外交大臣として皇帝の信頼も厚く、かなり上位の地位にある。これ以上何を望もうとしているのだろうか。女は媚びを売りながら不思議に思う。


「いずれ俺は皇帝になる」

 朱鴎の尊大な言葉に、女は思わず息を呑む。酒に酔っているだけとは思えなかった。その顔は黒い野望に歪み、女は一瞬恐怖を感じて身を引いた。

「ふふふ、嘘だと思うか」

「いえ、朱鴎様なら」

 気を良くした朱鴎は女の絹の衣に杯を傾けた。温かい酒が白い肌を滴り落ちる。朱鴎は女の胸に顔を埋めた。女は微かに震えていたが、それを悟られないよう必死に押し隠した。

 

 ***


 それから一昼夜が経っただろうか、今やいつこの檻から引きずり出されてもおかしくない。青蘭は何もできない自分の無力さに、打ちひしがれている。地下牢に微かな青い光が漏れている。この光が閃光となり、自分を消してくれたらいいのに、ぼんやりとそんなことを思っていた。

 ふと、石段を降りてくる密かな足音が聞こえてきた。青蘭の胸がぎくりと高鳴る。これから処刑場に向かうためにやってきたのだろうか、いや兵士たちならドカドカと足を踏みならしてくるだろう。

 息を潜めて檻の隙間から覗いていると、足音の主は小柄な男のようだ。兵士に耳打ちして何かを掴ませている。


「青蘭さん、聞こえますか」

 小声で名前を呼ばれた。青蘭は警戒しながら檻の傍に身体を引き摺っていく。檻の向こうには年の頃二十歳くらいの青年が立っていた。青年は痩せこけた青蘭の哀れな姿を見て眉をひそめた。

「あなたは誰です」

 青蘭にはその青年に見覚えが無い。

「私は西域からやってきた商人、桂兆けいちょうの子、桂山けいさんと申します」

 商人の子が一体自分に何の用なのだろう。青蘭は桂山を力無く見上げる。


「私の父、桂兆はこの国の大臣、朱鴎に殺されました」

 桂山は檻の鉄柵を握り絞め、唇を噛みしめる。その表情にはどうしようもない悔しさが滲み出ていた。青蘭は静かに耳を傾ける。

「父は、朱鴎に砂漠の洞窟の不思議な伝説を話しました。私たちの一族に古くから伝わる儀式です。街での取引に便宜を図った朱鴎を楽しませようと、何の気なく話したのでしょう」

 一族の間では誰もその儀式を試したことは無かったが、朱鴎は実際に行ったという。桂山の言う儀式はまさにあの洞窟内で行われたことだった。そして、彼の父は口封じに殺害された。青蘭は思わず目を見開く。


「儀式が成功すれば、選ばれし人間は異界へと旅立つと言われています」

 やはり、紫遠は死んだ訳では無かった。どこかで生きている。青蘭は全身の力が抜けるのを感じた。よろめきそうになり、鉄柵を握る手に力を込める。

「この儀式には続きがあります」

 桂山はここからが大事な話だと、真剣な眼差しで青蘭の手を握る。

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