第36話 紫遠の頼み事

 春秋堂を出た紫遠と青藍は大通りの小さな食堂で朝食を食べることにした。蒸籠からもうもうと湯気が立ち上り、常連客が集う店は活気に溢れている。

 蒸したてのちまきと牛肉麺、茶葉卵を注文した。紫遠は肉まんを食べたいと追加で皿に盛ってきた。

「牛肉麺、美味い」

 牛肉麺は値段が安く、手頃な主食だが紫遠は感激している。製麺技術やスープの出汁は古代に比べると飛躍的に進化していることが窺える。庶民の食事にいちいち感極まる皇子は見ていて面白い。


「この後、北門にある都北図書館に行こう。その前に鏡を買わないと」

 青藍がちまきの竹皮を剥きながらルートを考えている。柊都大街は飲食店の他、土産物や雑貨店、服飾店などが軒を連ね、日用品が何でも揃う。儀式に必要な小ぶりの手鏡もすぐに見つかるだろう。

「この通りは面白いな、散策してもいいか」

 古代からやってきた紫遠には珍しいものばかりだろう。

「紫遠一人じゃ不安だな。案内するよ」

 面倒を起こされては何かと厄介だ。しかし、紫遠は一人で街を歩いてみたいとかたくなだ。冒険したい気分もあるのだろう、青藍は仕方無く首を縦に振った。


「じゃあ、この店の前で待ち合わせしよう。あの時計台の短い針が十のところにきたらここに戻ってきてくれ」

 柊都大街のシンボルである西洋アンティークデザインの大時計は離れた場所からもよく見える。紫遠はわくわくが止まらないという表情だ。

「くれぐれも面倒を起こすなよ」

 青藍は紫遠の鼻っ面に指を突きつけて念を押して忠告する。紫遠は満面の笑顔で頷いた。

 青藍は鏡を入手するために雑貨屋を探して人混みに紛れていく。紫遠はそれを確認し、足早に裏路地にある春秋堂へ向かった。


「おっちゃん」

 砂埃にくすんだガラス扉を勢い良く開けると、カウンターでタバコを吸っていた幽風が驚いて目を丸くする。

「何だ、まだ用があるのかい」

 そう言いながらも紫遠に椅子を勧める。紫遠は手提げ袋から金の指輪に腕輪、ベルト飾りをつかみ出してカウンターに並べた。幽風はそれに飛びついて、手元のライトをつけ虫眼鏡で早速鑑定を始める。手の平に置いて重みを確かめたり、磁石を当ててその純度が高さに思わず唸る。細工は荒削りだが見事で、古代の意匠があしらわれていた。

「これは宗王家の宝物だ」

「たしかに、これは見事な品だ」

 幽風はため息交じりに呟く。経年劣化が無いことに説明がつかないが、例えレプリカとしても相当の価値がある。幽風は金細工の輝きに目を奪われている。


「おっちゃん、頼みがある」

 紫遠が身を乗り出した。その真剣な瞳に、幽風は反射的に唇を引き結ぶ。

「これを売って金に換えたい。そして、その金を全部この人に送ってくれ」

 紫遠はポケットから封の切られた白い封筒をカウンターに置いた。紫遠は宛先は柊都大学の学生寮、差出人の住所は北陽鎮とある。かなりの田舎だ。都会の大学に通う息子に当てた母の手紙だろう、と幽風は直感した。


「あんちゃんのおふくろさんかい」

 幽風はほとんんど灰になったタバコを揉み消して、神妙な面持ちになる。

「ううん、違う。俺の大事な友達の母上だ」

 幽風は内心驚いた。これほど見事な宝飾品だ、オークションにでも出せば都会で好立地の高級マンションを買ってお釣りがくるほどの金になる。そんな大金を親友の母に送るというのか。幽風は怪訝な顔で紫遠を見つめる。しかし、紫遠の言葉には一切の迷いが無い。彼が本気だということは見て取れた。


「いくらになるのか聞かないのか」

 幽風は指輪を手に取る。大きな翡翠がついており、台座のデザインも繊細だ。

「うん、おっちゃんを信じている。この価値に見合う金でいい。おっちゃんの手数料も引いていい。でも、できるだけ早く頼む」

 幽風は腕組をしながら考え込む。もし売りに出したとして、これが盗品なら危険が及ぶ。彼のような若者がなぜこれほどの宝飾品を持っているのか、紫遠をちらりと見やる。品の良い顔で自信たっぷりの物言い、育ちは良さそうだが。


「青藍は俺の運命を変えてくれた。そして俺の大事な家族や親友の命を救ってくれた。何にも代えがたい恩人だ。俺にはこんなことでしか恩返しができない」

 紫遠は物憂げな表情で俯く。垂れてきた鼻水を啜った。袖口で鼻を拭きかけて幽風が差し出したティッシュで鼻をかむ。

「わかった、おっちゃんに任せろ。悪いようにはしない」

 幽風は力強く胸をドン、と叩いた。紫遠は感激して幽風の手を取った。

「おっちゃん、ありがとう」

 紫遠は何度も礼を言って春秋堂を出て行った。


 腕組をした月影は新調した眼鏡を指でくい、と持ち上げる。朝一番に柊都大街の眼鏡店で注文した眼鏡を受け取った。今度は店内で試しに歩き回ったり、通りに出て遠くを眺めてみたり、慎重を期した。今も頭痛はないし、掛け心地は悪くない。

「紫遠を追わないの」

 冬波が不思議そうな表情で月影を見上げる。月影は紫遠が戻ってから一部始終を店の奥から気配を消して覗っていた。丸腰の紫遠に不意打ちをかければ一撃必殺のチャンスがあったかもしれない。しかし、そんな気になれなかった。


 本当に紫遠が軍を指揮して自分の故郷の辺境の村を襲ったのだろうか。彼の黒曜石の瞳には一片の曇りも無かった。しかし、王族とは身勝手なものだ。己の利益のために平気で民を虐げる。朱鴎からも王族が下す卑劣な密命を受けてきた。

 月影はふと思い返す。これまで何の疑問も持たず、朱鴎の命に従い多くの命を奪ってきた。反乱を企てる貴族の暗殺、町の集会場での放火、本当に上層からの命令だったのだろうか。

「行き先もわかる、今はいい」

 月影は頭を振り、邪念を打ち消した。

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