第42話 最後に立つ者

 洞窟内に満ちた蒼い光がゆるやかに収束していく。閃光が瞼の裏で火花のように弾けている。それがようやく収まり、月影はゆっくりと目を開けた。先ほどまで揺らめいていた蝋燭の明かりは消えたのか、洞窟内は真っ暗だ。ここにいたはずの紫遠と青藍の姿もない。月影はただ一人、闇の中に佇んでいる。


 蒼い光が瞬いた瞬間、怯んだ隙を突いて紫遠は月影に水晶を握らせた。その水晶は今、月影の手の中で粉々に砕けている。時を遡り、紫遠は元の時代に戻ったのだろうか。しかし、紫遠の姿はここにない。もしや、自分は別の時間軸に飛ばされたのか。


 洞窟の出口の方から微かに光が漏れている。月影は光を頼りに壁を伝いながら出口へと向かう。洞窟の外には満天の星が輝いている。地上には月の光に輝く蒼い砂漠が果てしなく広がっていた。

「よう、遅かったな」

 不意に、崖の上から声がした。見上げると、紫遠が腰に両手を当てて笑っている。

「戻ったぜ、蒼龍28年」

 紫遠が崖から飛び降りて、月影の目の前に立つ。月影は月輪を握り、構えを取る。

「連れて帰ってやったのに、礼も無しか」

 紫遠はおどけて肩をすくめる。


「貴様を殺すのが我が使命。自ら墓穴を掘ったな」

 月影は殺気を放ち、紫遠を睨み付ける。その碧眼の奥には暗い情念の炎が燃えている。

「なあ、教えてくれ。お前は己の身も顧みず俺を追ってきた。何故ここまで俺に執着する」

 紫遠の問いに、月影は口許に微かな笑みを浮かべる。

「20年近く前のことだ、宗の軍勢が辺境の小さな村を襲った。村人を強制移住させるためだ。逆らう者は皆殺された。俺の父母もその中に含まれていた」

 月影は感情の読めぬ声で続ける。

「集められた者は、幼子も老人も過酷な強制労働に駆り出された。俺はそこで多くの死を見てきた」

 紫遠は目を細め、唇を引き結ぶ。月影の淡々とした口調に、彼がどれほど心を殺して生きてきたかを悟った。


 しかし、何かがおかしい。西域の少数民族を強制移住、労働に従事させるなど、父の政策で聞いたことはない。

「父は炎の壁より西へ侵攻したことはない。当時、西域の民と不可侵の条約を結んでいたと聞いている。村を襲ったのは宗の皇軍だとお前は言うが、やはりそれはあり得ない」

 紫遠は断言する。その毅然とした態度に、月影は怒りを覚える。

「都でぬくぬくと暮らすお前たちが、辺境の民がどんな目に遭っているか知るよしも無いだろう」

 月影は怒りに戦慄きながら紫遠を断罪する。

「柊都から西のはずれは古くから外交大臣朱鴎の直轄地だ」

 その名を聞いて、月影は目尻を痙攣させる。

「あの非人道な所業を朱鴎様のせいにするつもりか」

 そう言いながらも、月影の心は揺らいでいる。主である朱鴎は冷酷で強欲な男だ。それは月影にもよく知るところだ。


 表向き報償は手厚いが、忠義を尽くす配下に向ける目は冷ややかだ。それでも、身よりの無い若者を寄せ集めた私設の暗殺部隊では、皆朱鴎を心から慕っていた。妄信の末に命を投げ出すことも厭わない。いや、それすら、朱鴎の都合の良いように仕組まれたものなら。


 月影はそれまで己の信じてきたものが足元から崩壊していくことに、恐怖と戸惑いを覚えた。

「嘘だ、俺を謀る気か」

 月影は呆然と呟く。しかし、憎しみを込めて紫遠を睨み付ける。全身から殺気が漲っている。月輪を構え、紫遠に襲いかかる。


 紫遠は足元にうち捨てられていた槍を蹴り上げ、手にした。月輪を穂先で弾く。金属がぶつかる音が荒涼とした砂漠に響く。

 月影は殺気を剥き出しにして斬りかかる。紫遠は襲いくる鋭い刃を槍を回転させて防ぐ。紫遠の槍が月輪を弾き返し、月影は反動で腕を大きく跳ね上げた。ガラ空きになった脇腹に中段の一撃を加える。

「ぐふっ」

 月影は脇腹を押さえてバックステップで間合いを取る。普段の彼ならば、もっと冷静だったかもしれない。しかし、明らかに心が乱れていることが見てとれた。


「朱鴎はお前を可愛がる素振りをしながら、使い捨ての駒として利用した。俺はそんなことはしない」

 穏やかな、しかし強い声音だ。紫遠は月影を真っ直ぐに見つめる。

「黙れ」

 月影は重心を下げて大きく踏み込んだ。アッパーカットで顎を狙い、月輪を振り上げる。紫遠はその腕を掴み、思い切りぶん投げた。月影の身体は岩場に勢い良く転がる。思わぬ反撃に舌打ちしながらも、すぐに体勢を立て直す。

「うぉおおお」

 紫遠は槍を放り投げ、叫び声を上げながら駆けてくる。月影はその勢いに一瞬気圧され、息を呑む。紫遠は大きく踏み込み、スピードに乗せた右ストレートを放つ。


 すれ違いざまに薙いだ月輪が紫遠の腕を切り裂いた。紫遠は鋭い痛みに顔を歪める。紫遠の拳は月影の顎にクリーンヒットした。月影は吹っ飛ばされたが、何とか踏みとどまる。しかし、顎に食らった一撃で平衡感覚を失い、目眩を覚える。

「くっ」

 月影は唇から流れる血を乱暴に拭う。紫遠の上腕からは赤い血がポタポタと落ち、足元に血だまりを作っている。

 紫遠はそれを気にもとめず、月影に殴りかかる。月影は紫遠の拳を肘で受けた。骨が軋むほどの剛力だ。紫遠はさらに鳩尾に下段から拳を打ち込む。月影が放った月輪が紫遠の頬を掠った。

「本当に危ねえ奴だ」

 紫遠は頬の傷を指で拭い、ペロリと舐めてみせる。腕の傷も焼けるように痛む。とんだやせ我慢だ、と自嘲する。


 丸腰で怯むこと無く向かってくる紫遠の姿に、月影は身体の内奥からふつふつとこみ上げる熱いものを感じていた。月影は両手の月輪を投げ捨てた。

「お、いいのか。お前不利になっちゃうぞ」

 紫遠は驚いて月影を指さす。

「黙れ、貴様には素手で充分だ」

 月輪で腹を抉れば終わりのはずだった。不思議とこの男と真っ向勝負をしてみたくなった。月影は地面を蹴り、上段蹴りを放つ。風に舞う銀髪が月明かりに輝いた。


 月が西へ傾いていく。

 何度拳が交錯しただろう。二人は立っているのがやっとの状態で、まだ睨み合いを続けていた。ここまでくれば、もはや意地の張り合いだ。

「いい加減、降参しろよ」

 紫遠は大きなため息をつく。出血は止まったものの、体力の消耗は激しい。

「おぼっちゃんかと思えば、貴様も案外しぶといな」

 月影は唇を歪めて紫遠を睨み付ける。体幹に受けたダメージが蓄積して、相当効いているようだ。ここで膝をつくわけにはいかない、互いに気力を振り絞る。


「これで、終わりだ」

 紫遠がスローモーションで殴りかかる。月影はそれを避けようとして、ぐらりと傾く。拳は明後日の方へ飛び、バランスを崩した紫遠はそのまま砂の上に突っ伏した。背後でどさっと音がして、月影もその場にぶっ倒れた。

 しばらく二人ともその場に死んだように横たわっている。夜風が砂丘を撫で、琴のような不思議な音を奏でる。紫遠は朦朧としながら上体を起こす。しかし、立ち上がる気力は無く、その場に座り込んだ。

 月影もふらつきながら立ち上がろうとしたが、力無くぺたんと尻をついた。

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