第2話 出陣の命
結羅大陸の中心部に位置する大国、
庶民出身で叩き上げの将軍だった白杜は圧政を強いる前王朝、琥(こ)の皇帝を廃し、王位についた。以来、周辺諸国と和平を結び、北方異民族の侵入を防ぎながら、国力を増強させてきた。大河のほとりに広がる肥沃な土壌で作物を育て、山脈の麓で大規模な放牧を行い、王朝は豊かになった。豪華絢爛な宮廷芸術が花開き、歴史や文学などの書物も数多く記された。
二十一代皇帝の宗緑永は祖先からの事業を受け継ぎ、北方の異民族の侵攻を防ぐ長大な壁を作った。高さ三十メートル、距離約千二百キロの壁は赤土が太陽を受けて燃えるように輝く様子から、炎の壁と呼ばれた。
紫遠は元皇帝の長子で、現在二十三才になる。奔放な性格で、こうして調練を抜け出して都が一望できる丘に登るのが好きだった。嫁も取らずに遊び歩いてと皇帝陛下は常々嘆いているが実のところは頼りにしており、紫遠には二十万の軍を任せてある。戦となれば勇猛果敢に真っ先に前線に飛び出す武勇を備え、人望は厚い。
紫遠の傍に付き従うのは美しい黒髪の青年、青蘭だ。紫遠が八つのとき、庭師が庭木を動物の形に巧みに刈り込む様子を夢中で眺めていた。その庭師が連れてきた子が三つ年下の青蘭だった。庭師の仕事に感動した紫遠は、ぜひその技を教えてくれと庭師の傍を離れなかった。青蘭とはその時に出会った。
小さな青蘭はとても賢く、宮廷にいる気位が高いばかりの閣僚の子供たちとは違い、一緒にいて楽しかった。庭師が流行病で死んだ後、紫遠は未成年だった青蘭を宮廷の奉公人として雇い入れた。
美しい青年に成長した青蘭のことを紫遠をたぶらかす淫売、と口汚く噂するものもあった。紫遠はそんな噂はまったく耳を貸さず、いつも青蘭と一緒にいることを好んだ。青蘭とは心から笑い合えた。
栗毛の愛馬を駆り、飛ぶように丘を駆け降りる。後ろに乗せた青蘭は振り落とされないよう紫遠の背にしがみついた。柳並木の大通りを抜けて宮殿の裏門に入り、馬を兵に預けた。
「若、どこへ行っていたのですか」
侍従が慌てて駆け寄ってくる。困り顔でへつらいながらも、横に立つ青蘭をチラリと睨み付けた。よくあることだ、青蘭は形式的に軽く頭を下げる。
「都の見回りだよ、異常無しだ」
早く皇帝の間へ、と侍従が促す。紫遠は面倒臭そうに宮廷へ向かった。
夕暮れの東屋で、燈迦(とうか)が書き物をしているのを見かけた。彼は紫遠の五つ離れた弟で、専ら宮殿内に籠もって書き物をするのが好きだった。いつも隙があれば城外へ抜け出す紫遠とは正反対の大人しい子だ。色の薄い栗色の髪の毛と色白の肌が儚い印象を与える。
燈迦は兄の姿をちらりと見ると、また顔を落として書き物に没頭し始めた。
「よう、燈迦。また詩を書いているのか」
いつの間にか背後に立っていた兄に驚き、燈迦は目を丸くする。
「はい、兄上」
「何だよ、いつも他人行儀だな」
燈迦は目を伏せる。快活で奔放な兄が苦手のようだ。聡明だが小柄な彼は、跡継ぎとして期待されてはいない。後継者争いの候補からは外されていると誰もが見なしていた。
「鳥の大軍が北へ向かって飛ぶ、か」
紫遠は詩の内容を読み上げる。燈迦は恥ずかしそうに唇を噛みながら、紫遠を見上げる。その先はまだ紡がれていない。
「お前の詩才は特別だ。きっとすごい詩人になれるぞ」
紫遠は燈迦の頭をくしゃくしゃと撫でた。燈迦は俯いたまま何も言わない。
空に星が瞬き始めた。紫遠は侍従に急かされながら宮殿に参内する。青蘭はこれ以上上がる事はできない。朱塗りの柱の傍で控えることになる。
「遅いぞ、どこをほっつき歩いていた」
玉座に座る皇帝白杜は白いものが混じり始めた豊かな髭をしごきながら、紫遠を一喝する。さすがの紫遠も肩を竦めてばつの悪い表情を浮かべる。
皇帝の左右には側近たちが静かに控えている。紫遠を待たずとも、国政の議題は多い。彼らとて暇を持て余していたわけではないはずだ。
「北方の蛮族が攻めてくると情報が入った」
皇帝の言葉にはいつになく深刻な響きを帯びていた。大臣の一人、外交を司る
「北方異民の玄兎族が炎の壁を越えて、季州城に侵攻したという情報が入りました」
季州城はここから三百キロ北上した地点、炎の壁を守る兵たちが暮らす小さな町だ。兵の家族も暮らしている。玄兎族は軍人だけでなく、民間人も虐殺しているという。
紫遠は悔しさに閉じた瞼に血に染まる城壁が浮かび、思わず拳を握りしめる。
「季州城を拠点にさらに南進し、都に攻勢をかけようとしています」
朱鴎の言葉が夜の影を落とす宮殿に不気味に響き渡る。この男は独自の情報網を持ち、誰より早く遠い地方の情勢を把握し、神速で動くことで皇帝の評価が高い。しかし手の内を明かさないため、他の大臣たちからは胡散臭く思われている。
「紫遠、お前に北方異民の討伐を命じる。兵二十万を率いて季州城へ進軍せよ」
皇帝の言葉に、紫遠は顔を上げた。
「二十万、それでは都に残す兵力が五万となります」
大軍を率いて遠征することは危険が伴う。紫遠はその決断に意義を唱えた。
「南の周辺諸国との関係は良好だ。炎の壁を越えた玄兎族こそが脅威だ」
皇帝の意思は固い。戦略を司る大臣とも討議しての結果というから、紫遠はそれを呑む他は無かった。
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