でっぷりと肥えた牛たちは、明らかに動揺していた。

 埃っぽく古びた牛舎の狭いスペースで飼料を食み、糞をして、眠る――いつもは、同じことを繰り返して食肉になる日を待つだけの身だ。鉄パイプで細かく区切られた、歩き回ることもままならない囲い――そこが肉牛の世界だった。囲いから出るのは、溜まった糞尿を片付ける〝ボロ出し〟の際に限られる。それでさえ、動くのは隣の囲いまでだ。彼らの一生にとっての〝イベント〟は、それがすべてだった。

 全身を高級な霜降り肉に変え、太る事だけを強いられた牛たちは、牛舎から出たこともない。外には青々とした草が背高く生い茂っているが、彼らが口にする事は許されない。豊富なビタミンを取って〝健康〟になることは、肥育牛の価値を下げる〝損失〟なのだ。なによりも、牛舎の外に新鮮でおいしい食料が生えている事を、彼らは知らなかった。

 それが、黒毛和牛の毎日だ。

 だが、その日は違った。

 遠い雷鳴のような音を感じたアルバイトの牧童は、竹箒でコンクリート引きの通路の藁くずを掃く手を止めてつぶやいた。

「雨……降るのかな……」

 その〝雷鳴〟は途切れることもなく、かすかな空気の振動に変わっていく。雷ではない。だがそれが何なのかは思いつかなかった。

 体重600キロを越える牛たちがそわそわし始めたのは、その数分前からだ。眠っていた一頭が唐突に立ち上がると、巨体を揺らして囲いの中を回り始める。それに釣られるように、他の牛たちも一斉に立ち上がる。奇妙な振動が大きくなると、さらに一頭が悲鳴のような鳴き声を上げ、全員が競うように叫び始めた。広い牛舎に、牛たちの咆哮が溢れる。

 東日本大震災の時でさえなかったほどの異常行動だ。牧童は何が起こったのか分からず、竹箒を抱きしめて立ちすくんだ。

 かすかに地面が揺れ始めた。その揺れは絶え間なく、どんどん大きくなっていく。トタン張りの薄い壁も、びりびりと震え始める。地震ではない。体験したことがない、他の何かだ。

 牛が、闇雲に周囲に体当たりを始めた。巨体に押された鉄パイプがひしゃげる。大きな角で激突された壁のトタンがめくれ上がる。何頭かが通路に飛び出し、牧童に向かってきた。

 牧童は、竹箒を投げ捨てて外に向かって走った。牛舎を飛び出し、異変の正体を知った。

 巨大な航空機が轟音をたてて目の前を横切っていたのだ。手を伸ばせば届きそうに思えるほどの低空を飛んでいる。一瞬、墜落してきたのではないかと思うほどだった。だが、その機体は地上の建物に接触することはなかった。

 グリーンと茶色の迷彩に、真っ赤な日の丸――自衛隊機だということは明らかだ。だが、この近くに自衛隊の基地がないことを牧童は知っている。近くの基地でも、千歳か帯広だ。どちらにしても、牧場からは遠い。飛行機が来た方向は帯広だが、そこは陸上自衛隊の基地のはずだ。過去に航空自衛隊の千歳基地から訓練の飛行機が飛んできたという記憶もない。しかも地上ぎりぎりの低空を飛ぶことなど、なおさらあり得ない。

 牧童はあっという間に過ぎ去っていく機体の後ろ姿を目で追った。辺り一面に埃が巻き上げられる。埃の中に浮かび上がったシルエットは、〝飛行機〟と呼べるフォルムではなかった。フグのようにでっぷりとした胴体に比べて主翼が異様に短いし、翼の両端に大きなエンジンが付いている。そんな機体が空中に浮いている事が信じられない。そして、その正体に気付いてつぶやいた。

「あ、あれだ……ニュースでやってたやつ……。ヘリコプターみたいにも飛べる輸送機、なんて言ったっけ……」

 轟音は、やってきた時と同じように瞬く間に消え去っていった。牧童を包んだ埃も航空機が起こす風で吹き飛ばされていく。

 牧童の背後では、牛舎から飛び出してきた数頭の牛がうろついていた。広い敷地に戸惑い、轟音が消えたことで落ち着きを取り戻している。そして、牛舎の周囲に青々とした生の草が茂っていることに気づく。牛たちは、当然のことのようにその草を喰み始めた。

 振り返った牧童は、呆然とつぶやいた。

「ああ……こいつら、どうやって牛舎に戻せばいいんだよ……」

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