4
3日目の朝、矢作の脳に指令が届いた。
『まもなく準備が整う。秘書が行動を起こしたら、彼女に従って部屋を出ろ』
秘書に従え――。その指示に違和感は感じなかった。昨日一日、じっくり味わったケイコの身体は、まさに鍛え抜かれたアスリートそのものだった。並の女ではない。今は、ストレッチ素材の淡いクリーム色のパンツスーツを着ていた。初対面の時とも昨夜とも違う、入学式の女子大生のような雰囲気だ。
矢作の頭の中の通信機とは別のルートで神崎からの指示を受け、準備を整えていたようだ。
だがケイコは、〝行動〟らしいことは何も起こさない。
矢作は居間で、5号様とケイコと三人で、フレンチシェフが用意したオムレツをゆっくり楽しんだ。食事が終わると、ケイコが茶色の液体が入った小さなグラスを差し出した。
「これ、飲んでいただけます?」
矢作は自分にだけ出されたドリンクを訝しげに見つめた。何やら、嗅いだことがない奇妙な刺激臭が漂っている。
「なに……?」
クスッと笑ったのは5号様だ。
「効果は抜群だよ。強壮剤だ。目が覚めるし、一気に力が湧く。あんたには必要だと思うよ。昨日が昨日だったからね」
「あんたは飲まないのかい?」
「あたしはまたすぐに眠るから。ま、試してごらん」
矢作は手に持ったグラスをじっと見つめてから、覚悟を決めて一気に飲み干した。喉が焼けるような熱さが走り抜ける。アルコールとは違う、経験のない刺激だ。
むせ込んだ矢作がつぶやく。
「これ……何が入ってるんだ……?」
ケイコは言った。
「漢方薬です。即効性を重視したブレンドがされています。私もさっき飲みました」
確かに、矢作の腹の中はかっと熱くなっていた。寝起きは昨夜の疲れで頭が重かったが、一瞬で目が醒めて筋肉に血が送り込まれていくのを感じた。たちまち、全身に力が湧き上がっていく。
「おい……すげえな、これ。どこに売ってるんだ⁉」
ケイコが淡々と答えた。
「販売はしていません。中国の漢方医から取り寄せたものです。ここの医務室のチェックを通過すれば、入手することを許されます。ただし、ドーピング検査がある競技の前には飲めません。毒性はありませんが、興奮剤の成分が検出されますから」
矢作はがっかりしたように肩を落とした。今なら、『SHINOBI』にも自信を持って挑める気がしていたのだ。だがそれは、単に興奮剤の効果かもしれない。
扉の横に看守の〝黒服〟が、彫像のように立っている。矢作たちのやり取りを、何も言わず、表情も崩さずにじっと見つめていた。
ハウスキーパーが出してきた朝食後のコーヒーを飲み終えた時だった。神崎の声が頭に響く。
『作戦を開始する。秘書に『新聞はないのか?』――と尋ねろ』
矢作はケイコに言った。
「新聞はないのか?」
ケイコは穏やかに微笑む
「取ってきます」
ケイコは食事を中断して、看守の傍らに置いてあったワゴンに向かう。ハウスキーパーたちが早朝に雑誌などをセッティングしていた場所だ。矢作は、黒服がそこに置かれた雑誌類をさりげなく広げて検査していたことも見ている。
ケイコはワゴンから新聞を取ろうとした――。が、矢作の位置からは、そうではないことが見て取れた。素早く手のひらを上に向け、天板の下から何かを取り外したのだ。その何かを、あっという間に黒服の首に押し付けた。
瞬間、そこから火花が散ったように見えた。スタンガンだ。
黒服は一瞬ひるんだが、反撃は早かった。その場にしゃがむようにしてスタンガンを外すと、ケイコの腕をねじるように押し上げながら羽交い締めにしようとする。
だが、ケイコの動きはさらにそれを上回った。信じ難いほど柔らかく身体をくねらせると、黒服の背後に回って首を抱え込む。その両足は相手の胴体に絡み付いて、締め上げていた。まるで、巨大なクジラに絡み付くダイオウイカのような姿だ。
矢作もベッドで、そうやって締め付けられていた。
黒服はケイコの身体を外そうと、背中を壁に打ち付ける。ケイコは、その勢いを軽く逸らせて首を締め付けるパワーに加えた。その力は、昨夜とは桁違いのようだ。圧倒的に柔軟な身体を駆使して、相手の力を自在にコントロールしている。爆発的な筋力を吐き出す巨漢を、軽々と操っている。
黒服はたまらずに、自ら倒れ込んだ。自分の体重で、ケイコを押しつぶそうとしている。最後の抵抗だった。しばらくもがいた後、黒服の抵抗はいきなり止まった。
〝落ちた〟のだ。頸動脈への締め付けで脳への血流を遮断され、黒服は意識を失った。
矢作の専門は格闘技ではなかったが、『SHINOBI』を勝ち進むには動体視力を鍛える必要もあった。二人の格闘は一瞬のことのように見えたが、その中に激しい応酬があったことがはっきりと見えた。黒服は、間違いなく実戦のための格闘訓練を受けたプロだ。しかも、相当の実力を持っている。その黒服を呆気なく倒したケイコは、いったい――?
カップを持った手を止めて、面白そうに格闘を眺めていた5号様が言った。
「なるほど、この娘も所長の手先だったんだね……ま、そんなところだろうとは思ってたけど」
矢作はぼんやりとつぶやいた。
「あいつ……何者なんだ……?」
5号様がコーヒーを飲みながら答える。
「看守かい? 自衛隊員だよ。ここは刑務所だから建物は警察の持ち物だが、管理は自衛隊に委託されている。絶対的な安全性が必要だからね。だから、看守も警備員も、全部自衛隊員だ。もちろん、所長もね。しかもこのホテル自体、自衛隊の演習場の中にあるらしい。何でも、破綻したリゾートホテルを広大な土地ごと買い取って、演習場として完全に立ち入り禁止にしたらしい――」
矢作は、立ち上がったケイコの姿に目を奪われていた。自衛隊のマッチョをあっさり倒したというのに、かすかに息を乱しているだけだ。ケイコが額にかかった髪をかき上げ、矢作と目が合う。
黒服が自衛隊員だという説明は納得できた。だが――。
「そっちじゃない……この女、いったい誰なんだよ……」
5号様は軽く肩をすくめた。
「さあ、何者なんだろうね? あんたも、あの娘が普通じゃないことは分かってたろう? でも、こんな姿は私も初めて見たよ。所長に利用されてたのはしゃくだけど、高い金を払ってる価値はあったってことだ」
ケイコが矢作に言った。
「食事は終わった? 行くわよ」
「どこへ?」
「最上階」
矢作は、看守が自衛官だという事実に改めて思い当たった。
ファントム・プリズンは、実質的な〝日本軍〟が警備していたのだ。それは、ここが国家的な重要施設だと認められているからに他ならない。テロを警戒する原発並の重要度だ。でなければ、警備は通常の刑務所と同じで事足りる。『重慶の大虐殺』以来、世論の後押しを受けた日本政府は果敢な決断を矢継ぎ早に行った。国民はその決断を歓迎した。これまで日本の軍拡を抑制してきたアメリカ政府も、共和党政権に変わって立場を変えた。自衛隊はネガティブリストで動く国軍機能を備え、その交戦権を大きく広げたのだ。重要施設を攻撃されれば、当然、実弾での反撃が許されている――。
矢作は、実戦部隊の包囲を破って最上階まで登らなければならないのだ。これまで自分や家族を守ってくれた〝母国〟を裏切って、国家的な犯罪を犯そうというのだ……。
「おい……神崎も自衛官だってか⁉ 自衛官が強盗を企んでるのかよ⁉」
ケイコはあっさりと答える。
「別に、不思議なことじゃないと思うけど」
「ふざけんな! 自衛隊と戦えっていうのか⁉ 俺、日本人なんだぞ……?」
「私には関係ない。関心もない。でも、外では複数の自衛官が味方になっているはずよ」
「はず、って……? 確かじゃないのか⁉」
「わたしも、計画のすべては知らされてないから」
「だが、そのドアから出られないだろうが……監視されてるし……」
矢作は、ドアを開けるときは黒服がコントロールセンターに連絡すると聞かされていた。センターで遠隔操作しなければ、黒服自身も開けることはできないのだ。
ケイコは言った。
「あなた、所長が指揮官だって知ってるんでしょう? あっちの準備が終わったから、私に命令が来たのよ」
会話に、神崎の声が割り込む。
『外の準備は終わった。君が日本を裏切りたくないというなら、今、そこで死にたまえ。そこの秘書が手を下す。だがそれは、君の息子たちの死も意味する。考えている時間はない。行動で答えろ』
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