周金幣は、血の気を失っていた。5台並んだモニターの中で繰り広げられている状景は、悪夢そのものだ。

 影武者まで用意したのは、自分の命が狙われていることを充分に予測していたからだ。単純な暗殺を恐れたわけではない。もはや政治的力など持たない周を殺したところで、〝中国〟には何も影響がないからだ。殺害するだけで現状が有利に動くなら、洗脳した兵士に自爆テロを起こさせてでも周を抹殺しただろう。だが、合衆国の情報機関は中国側が暗殺を企んでいる兆候は察知していない。

 中国側の意図は――それが、どこの戦区のものであっても、明確だ。

 殺してしまえば、たとえ周資金が凍結されたとしても、今の中国に返還される保証はない。『中国』と呼ぶべき国の形が定かではないからだ。このまま旧軍区と戦区が混じり合って争う混沌が続けば、金を返すべき相手が誰なのか、国際社会は定められない。だからどの戦区も、自分たちが中国を代表する〝政府〟としての実権を握ろうと競っている。内戦は、そのためのステップなのだ。

 戦区のトップに立ちさえすれば、周資金を含め、過去に国外に流出したすべての不正蓄財を回収する大義名分を得られる。逆に、内戦状態が続く限り、膨大な周資金が宙に浮く。それはすなわち、中国から流出した〝人民の資金〟が、結果的に合衆国を中心とする国際金融マフィアの手に落ちることを意味するのだ。

 だが、周を拉致できれば状況は変わる。国際的な了解など得られずとも、周自身に蓄財を吐き出させればいい。〝祖国〟の目的は、周が隠し持った資金を奪うことなのだ。暗殺者が送られてこないのは、その金が欲しいからに過ぎない。拉致は暗殺よりも困難で、成功率が低い。だから中国は、その機会を静かに伺っていたのだ。

 拉致さえ可能なら、その後は脅迫でも拷問でも、選べる手段は無数にある。遠縁の家族から順に、目の前で拷問して殺害していけばいつかは必ず資金を吐き出す。殺すのは、それからでも構わない。

 だから周が恐れていた事態は、拉致されて〝祖国〟に連れ戻されることだった。そして最も警戒していた相手は、北朝鮮と手を組んだ北部戦区だった。かつては周の〝部下〟だった、共産党ナンバー3――張徳江の出身母体だ。

 張は粛清の危険を察知すると地元の旧瀋陽軍区にこもり、『反乱を抑える』と称しながら〝独立〟の基盤固めに奔走した。北朝鮮との国境に生まれた張は、金日成総合大学への留学経験もある朝鮮通で、北朝鮮の実力者たちと古くからの太いパイプを築いていた。結果、瞬く間に旧満州国の復活に近い状況を完成させてしまった。

 しかもそこには、合衆国すら恫喝できる弾道ミサイルと、日本に深く浸透したスパイ網が備わっている。新たな〝国〟を興して〝皇帝〟の座を狙う張は、周資金を奪って中部戦区を呑み込もうと画策している。それが叶えば、中国は再度統一されて、張の帝国と化すかもしれない……。

 いつでも切り捨てられるはずだったナンバー3の野望が、今や周の命を脅かしていたのだ。

 周は亡命直後から、最終的にどこに身を隠すことが最も安全なのかを計算した。合衆国もEUも、信頼できない。周自身が過去に数々の工作を仕掛け、金と女でその体制を蝕んできたからだ。それらの国々で、無数の〝中国の理解者〟を開拓し、潜ませている。中国の各戦区は国際的な優位性を勝ち取るため、分裂後も彼らの繋がりを深める工作を加速させている。

 だが今では、どこの誰がどの戦区の手先なのか、周自身にも見極めらない状態に陥っている。無数の毒蛇を生やしたメデューサが死んで、頭の蛇たちが勝手に争い始めたようなものだ。合衆国が周を守る姿勢を崩さなかったのは、巨額の資金を隠し持っているからに過ぎない。チャイナマネーに溺れてきた白人ごときに、安心して身を委ねることなどできるはずがない。

 だからこそ周は、ファントム・プリズンに身を隠すだけで満足せず、身を守るために更なるトリックを用意した。影武者まで準備した用心は、杞憂に終わらなかった。

 だが〝敵〟の覚悟も尋常ではない。

 影武者を襲うには、日本という国家が万全の守りを固めた〝城壁〟に穴を開けなければならない。とてつもない資金と組織力が必要になる。そのような賭けに出られる実行部隊は限られる。北朝鮮が自衛隊に潜伏させていたスリーパーたちを〝覚醒〟させ、総動員しなければ不可能なのだ。そして、彼らを動かせるのは歴史的に北朝鮮との深い繋がりを保つ旧瀋陽軍区だけだ。彼らは、義勇軍を送った朝鮮戦争の時代から〝血の紐帯〟で結ばれている。周が中国を統括していた時代から、常に目障りな存在だった。

 一方で、スリーパーは正体を現せば大半が使い捨てになる。長年に渡って育て上げ、温存し続けた切り札を晒すのは、他に選択肢がない時の〝最終手段〟に限られる。しかも、確認されている襲撃者は六人で、他にも彼らを指揮する者が最低一人は必要だろう。それほどの数が〝たまたま〟ファントム・プリズンに集まることなどあり得ない。元国家主席が収監されることを知った何者かが、意図的に集めたのだ。周の去就を知り、陸上自衛隊内の人事を差配する権力を持つ者でなければできない荒技だ。

 それは、自衛隊の高官の中にまでスリーパーが入り込んでいることを意味する。彼らが持てる能力の全てを注ぎ込んで、一斉に蜂起したのだ――。

 目的は周金幣の身柄よりも隠し資産だ。1兆ドルをはるかに超える〝周資金〟。だから彼らは、真っ先に送金装置に向かった。その場所を聞き出すために、有無を言わせずに影武者の耳を切り落とした。金さえ奪えれば、周本人などこの場で殺して構わないという意思表示だ。拉致が目的ではない……。

 周の顔が曇る。

 だが、装置を奪ってどうしようというのか?

 奪ったところで、それを使えるのは周金幣本人しかない。綿密な計画の上で切り札を晒した彼らに、そんな基礎知識が欠けているはずはない。なのに彼らは、平服の男に平然とジーンゲイトを操作させた。影武者を差し置いて真っ先に、何のためらいもなく。

 しかも男は、他の者と違って争いから逃げ回っているだけだった。なのに、プロの戦闘員たちに堅くガードされていた。

 あの場違いな男は、いったい誰なのか? なぜ、影武者の元に連れてこられたのか……?

 周金幣は〝それ〟に気づいた瞬間、思わず小さな叫び声を上げた。

「まさか!」

 男は、ジーンゲイトを開く〝鍵〟なのだ。元国家主席である自分と、同じ遺伝子を持っているのだ。科学的にそんな可能性があるかどうか、周には分からない。だが、それが現実に起こったのでなければ、こんな無謀な攻撃は仕掛けられない。戦後80年近くかけて北朝鮮が育ててきた〝最終兵器〟を捨ててまで、男を前面に立たせる理由がない。

 ジーンゲイトは破られたのだ。男が〝ここ〟に来れば、周資金は奪われる。そして自分は殺されるか、最悪の場合は祖国で晒し者にされる……。

 数えきれないほどの政治的修羅場を越え、厳しい決断を下してきた周金幣が、震えた。心の底から怯えていた。

 守りは万全だった。だが〝敵〟は万全のはずの備えを次々と破り、最後のトリックにまで迫っている。ここで防ぎきれる保証はない。自分が作戦を指揮する立場なら、必ず〝最悪の場合〟に備えたバックアッププランを要求する。当然、彼らもそれを持っている。

 もはや自分が安全だという保証はなくなった。この危機を脱するには、どうするべきか? 

 金さえ渡らなければ、おそらく即座に殺されることはないだろう。ならば、こちらもまず金を守ることが先決だ。周資金を守ることは、身を守ることに直結する。だが、最も安全なプライベートバンクに置いた金を、これ以上どうやって守ればいいのか……?

 しかし、あの男がジーンゲイトを操作すれば、金はどこに送金されるか分からない。止める方法もない。金を奪われれば、自分も不必要な存在に変わる。

 瀋陽の口座への送金は阻止しなければならない。ジーンゲイトを破壊すれば、この場での送金は止められる。あるいは故意に不正な操作を繰り返し、ジーンゲイトの機能を停止させることも簡単だ。だが、それで事態はどう変わるか? 敵もそれを想定しているはずだ。次は、周自身を拉致する作戦に切り替えてくるだろう。過酷な拷問を繰り返された末に、結局は言いなりにさせられるだろう。それはおそらく、殺されるよりも桁外れに辛い。

 とはいえ、高度に訓練された自衛隊の施設から重要人物を拉致できるのか……? 階下を見れば、本物の自衛隊員たちが集結していることが見える。明らかにスリーパー部隊の殲滅に動き始めている。増援も集まっているはずだ。勝負は、時間が分けるだろう。時間がかかればかかるほど、スリーパーたちには不利になっていく。時間さえあれば、自衛隊が彼らを一掃する。

 それは、希望的な予測に過ぎない。それでも、高い可能性を持った予測だ。まずは、時間を稼がなければならない。何が何でも、ジーンゲイトを破らせてはならない。

 どうすればいい……どうすれば送金を止められるのか……?

 周金幣は、自分が追いつめられたことを悟った。

 止められなければすべてを失う。

 命までも……。

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