7
坂本は、通信室からのハッキングを完全に退けて、安堵の溜息を漏らした。全館のドアロックは死守した。それを開くには、壁ごと破壊するような荒技が必要だ。作戦遂行に必要な時間を稼ぐには充分だ。
電子の死闘を終え、坂本は初めて〝標的〟が周金幣だったことを知らされた。合衆国に逃亡していると信じ込んでいた前中国共産党総書記が、自分の身近に潜んでいたことは全く予想外だった。当然、驚かされた。だがそれ以上に、自分が世界的VIPを襲う極秘作戦に選抜されたことに奮い立った。この瞬間のために十年以上も自衛隊内に潜んできたのだ。死をも覚悟しながら……。
衝撃が大きければ大きいほど、誇らしくもあった。自分の働きが祖国・北朝鮮を蘇生させる大きな力になるのだ。それなのに、ペントハウスにいた人物は影武者だという。その〝誇り〟が、幻のように目の前から消え去っていく。自分が何をなすべきなのか、どうすればいいのか分からない。
すでに、日本に牙を突き立てた。北朝鮮のスパイだったことも暴かれている。後戻りはできない。〝標的〟に手が届かないのなら、何の成果を得られないままこの国で処刑されて人生を終えることになる。自分がこの世に生きてきた意味が消え去ってしまう……。
呆然と神崎に目を移す。
神崎は厳しい目で虚空を見つめていた。頭の中では、素早い状況判断が行われているようだ。
タワー1のペントハウスにいたのは周金幣の影武者だった。神崎にまで、偽りの情報が与えられていたのだ。偽装は、自衛隊のはるか上層部で行われていたことになる。
それはなぜか?
関係者からの情報が漏れを防ぐ予防措置なのか?
神崎がスリーパーであることを疑われていたからなのか?
神崎自身もその可能性に気付いているに違いない。
神崎が意を決したように坂本を直視し、命じた。
「我々は罠にはめられた。まずは、そこから脱する。周辺の状況を正確に把握しろ。すでに隊に包囲されているかもしれない」
周金幣資金を奪うために組織した部隊は、選りすぐりのスリーパーだ。互いに一切に接触を持たないまま、本国からの指示のみによって自衛隊に潜入した精鋭たち。多くは、そのまま数十年の時を過ごし、日本人を凌ぐ勤勉さを見せて階級を上げてきた。その間には何百人もの〝仲間〟たちが正体を暴かれ、あるいは任務の厳しさに絶望し、脱落していった。ここに集結したメンバーは、国家の誇りを胸に抱き続けることができたほんの一握りのエリートなのだ。北朝鮮が持つ、最も鋭利で強力な〝破壊兵器〟だ。
日本は、巨大地震にも、原発事故にも、レアメタルの禁輸にも揺るがない国だ。いや、危機に瀕するたびに、より強固に蘇る恐ろしい国だ。なにより脅威なのは、それが国家の主導で行われるのではなく、国民の中から沸き上がる力で達成されることだ。他のどんな国にも、そのような再生力は存在しない。核ミサイルを撃ち込んだところで、祖国が勝てる確証はない。事実、かつてアメリカが投下した原爆の被害からも瞬く間に復活している。そんな〝怪物〟に対しては、内部からの崩壊を目指すスリーパーだけが切り札になり得る。
この作戦は、祖国が切り札を晒す覚悟で立案した〝渾身の一撃〟だ。死にかけた祖国を再興できるか否かを決する、大きな賭けだ。失敗すれば、祖国は日本と対峙する戦力を完全に失う。
坂本の背に、冷たい恐怖が走った。
自衛隊が、もしも〝それ〟を狙っていたのなら……。
影武者を準備したのは、おそらく周金幣自身だろう。ファントム・プリズンに影武者を収容することを了解した自衛隊の上層部は、当然それを知っている。
万一彼らが、祖国が企てた周資金奪取計画を察知したなら――。
謀略に長けた組織なら、そのプランを逆手に取るアクティブなカウンターインテリジェンスを企てる。すなわち、スリーパー組織の一掃。周資金を餌にして自衛隊に潜むスパイをファントム・プリズンに集め、一気に叩き潰す……。
その予測を裏付けするように、モニター内で動きがあった。坂本が状況を告げる。
「巡回隊が戻ってタワー1一階の入り口を破壊しました。管理室に閉じ込めていた五名の隊員が解放されました。一部が地下通路に向かっています。隔離壁が破られれば、この回線も切断されることが予測されます」
彼らが占拠した制御室は、タワー2の地下にある。タワー2は、建物全体がファントム・プリズンの管理部門であり、フロアの多くは隊員の居住区と備品や兵器の倉庫になっている。主に〝刑務所〟として使用されているタワー1には、襲撃を受ける危険を想定して管理部門は最小限しか置かれていない。二つのタワーは狭い地下通路で結ばれ、そこには鋼管の中に通信回線が通されている。解放された自衛隊員が回線を切断すれば、タワー1からの情報は途絶えることになる。
神崎の声にわずかな焦りが生じる。
「他に動きはないか?」
「突入部隊を編成しているようです」
「通信は傍受できるか?」
しばらくコンソールを操作した坂本が答える。
「秘匿携帯を使用して本隊と通信しているようです。傍受できません」
「予測の範囲内だ。監視画面からできるだけ〝敵〟の反撃計画を読み取れ」
慌ただしく画面を変えてタワー1のカメラをチェックする坂本が、その手を止めた。写されているのはエレベーターの最下層だ。
「これは……なんでしょうか? エレベーターシャフトの底に何かを設置しています」
三人の隊員が迫撃砲のようなものを昇降路の最下層に置き、アンカーで固定している。だが、ずんぐりとした太さの形状は坂本が見たことがないものだ。
神崎が坂本が示したモニターに近づく。
「画面をアップにしろ! 操作員の手元を見せろ」神崎は、それが何かに一瞬で気づいたようだ。「小型のサーモバリック弾だ。バンカーバスターの機能も備えている……」そして、無線機に叫ぶ。「撤収! そのペントハウスは焼かれる! 窓から脱出しろ! この無線も切断される!」
完璧な電波遮断が行われているタワー1とは、地下通路を通っている有線を仲介しなければ通信が行えない。万一通路が破壊されれば、影武者を襲った部隊は完全に孤立する。
坂本から血の気が引く。
「そんな兵器がタワー1に装備されていたのですか⁉」
「テロ組織によるビル占拠を想定した市街戦用の兵器だ……ファントム・プリズンに配備する予定は聞いていた。だが、すでに持ち込まれていたとは……所長の私の頭越しに配備したということは、完全に疑われていた証拠だな……」
と、モニターの半分の画面が一斉に消えた。タワー1との回線が切断されたのだ。一瞬遅れて、腹に響く爆発音と振動が伝わる。地下通路が爆破されたようだった。
神崎は自衛隊員との戦いは覚悟していたようだった。冷静につぶやく。
「隊は実戦体制に入ったな……」
坂本が問う。
「先ほどの兵器は、どの程度の威力を持つですか?」
「通常は地下施設の破壊に用いられるのだが……エレベーターシャフトで真上に向けて作動させれば天井の壁を破壊して、サーモバリック爆弾が最上階で炸裂する……」
その後の惨状は坂本にも予測できた。
サーモバリック爆弾は、一般的に燃料気化爆弾と呼ばれている。気化爆弾は酸化エチレンなどの燃料を小さな爆薬で加圧沸騰させて、空中に散布する。燃料の散布は急激な気化によって行われるために、凄まじい速度で拡散する。霧状の燃料が空気と混じり合ってから爆発的に燃焼し、周囲の酸素を一瞬で奪って真空状態を作り出すのだ。その場に人間がいれば、たとえ爆発の劫火は免れても急激な気圧低下によって内蔵が破壊される。その破壊力はナパーム弾などの比ではない。
ビルの中で気化爆弾を使用すれば、衝撃と火力はビルの壁や床をぶち抜く。まるで空気を抜いたドラム缶のように内部から圧縮され、建物の中の生き物を瞬時に抹殺する。建物が古ければ、内側に向かって崩れ落ちるだろう。
自衛隊は、それをファントム・プリズンで爆発させようとしている。内部で破壊活動を行うスリーパーたちを、影武者一派と同時に〝消滅〟させようと目論んでいる。
本物の周金幣を守るために……。
タワー1は、改築の際に防衛上の強化が徹底して行われた。もはや、本来のリゾートホテルとは似ても似つかない構造物になっている。壁や床面をセルロースナノファイバーで補強して、気密性を高めた上に潜水艦並みの堅牢さを持たせたのだ。収監者の生命を脅かす者からの攻撃を避けるためだ。外気と繋がるは空調ダクトだけだが、それもガス攻撃に備えて密閉可能な装置が取り付けられ、今は全て閉じられていた。部屋が長時間密閉された場合に備え、各所に酸素ボンベまで備えられている。気化爆弾の爆発規模にもよるが、それぞれの〝監房〟に入っている限りエレベーターシャフトでの爆発からは守られる可能性は極めて高い。
しかし、ペントハウスの構造は特別だ。外周にはセルロースナノファイバー製の窓もある。ホールへ通じるドアも、開いたままコントロールを断たれた。エレベーターシャフトの天井が破られて内部で気化爆弾が点火すれば、急激な酸素の消費による気圧の低下は天井と開いた扉に集中し、ペントハウスの空気を一瞬で奪う。窓はその衝撃に絶えきれず、内部に向かって破壊されるだろう。さらに、気化爆弾の燃焼による超高温が部屋を襲う。当然、中にいる者は全員命を絶たれる――。
自衛隊は、罠に陥った〝襲撃者〟を焼き尽くそうとしている。
残り時間はおそらく数分――。
坂本はずっと抱いていた疑問を口にした。
「本当の周はどこにいるのでしょうか? ファントム・プリズンにはいないのですか?」
神崎は次の一手を計算していたようだ。即座に答える。
「それは、あり得ない。ここは、最も強固な保安性とホテル並みの快適性を備えた施設だ。だからこそ、周金幣はここに逃げ込んだ」
「しかし、日本には他にもファントム・プリズンがあるという噂を耳にしましたが?」
「それも違うだろう。私は、自衛隊が管理を任されている場所はここだけだと聞かされている。他の施設では保安性に不安が残る。周金幣はやはりこの敷地内にいる」
そして今、自衛隊の管理部隊には気化爆弾の使用が命じられている。爆弾を使用しても、ペントハウス以外の収監者にはおそらく影響がないだろう。でなければ、決して使用許可は下りない。だがそれは設計理論上の話であって、実験で検証された訳ではない。収監者全員を殺す危険もゼロではないのだ。その危険を冒してでも、隊は〝襲撃者〟を迅速で確実な手段で抹殺しようとしている。
アメリカからの〝預かり者〟であり、莫大な資産を隠し持つ周金幣をそのような危険にさらすことはできない。つまり、彼はタワー1にはいない。残る可能性は、タワー2――神崎の頭上だ。そこに、目立たずに息をひそめている。敵は少人数だという証拠でもある。最も安全に隠れられる場所は、頂上の3フロア――高級士官の滞在用に準備されているペントハウスだ。
坂本が言った。
「こちらのタワーでは?」
神崎はうなずく。
「私も同意見だ。標的はタワー2のペントハウスにいる。〝鍵〟を移送する。我々はバックアップを行う」そして、坂本に指示する。「タワー2の現状は?」
「玄関、通信室の封鎖はまだ解かれていません。館内居住区もロックしたままですので、非番の隊員は通路へも出られません」
「我々もペントハウスへ移動する。早急に通路を確保しろ。まずは武器庫に向かう。彼らを回収する手段を講じる」そして神崎は通信機で関係者全員に伝わるように命令した。「プランAは失敗、バックアップのプランBへ移行する。ランデブー地点はタワー1からタワー2のペントハウスに変更」
「通信は届くでしょうか?」
神崎はつぶやいた。
「無理だろう。機転を利かせてタワー2に向かって来ることを願うしかない」
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