矢作が叫ぶ。

「焼かれるって何だよ⁉」

 それに応える者はいなかった。

 黒服がケイコに命じる。

「君はこの男を守って」床に落ちたままの銃を拾い上げ、窓に向ける。その先には、真正面にもう一本のタワーホテルが見えている。「跳弾を避けるように!」

 偽の周金幣は、転がったままの死体を見つめて部屋の隅で縮こまっていた。耳の傷を押さえて震えている。抵抗する素振りは微塵もない。明らかに、戦い方を仕込まれた人間ではない。単に周金幣に容貌が似ていただけで選ばれたのだろう。

 矢作は激しい同情を覚えた。立場は同じだ。自分も周と同じDNAを持つというだけで、こんな場所で危険のただ中に放り込まれている。国家と国家との衝突に巻き込まれている……。

 矢作はケイコに強く腕を引かれ、ドアの外に身を隠した。同時に、室内に銃声が轟く。二人はすぐに部屋に戻った。

 大きな窓は砕けていない。ヒビや傷さえ見えない。

 銃を構えたままの黒服がつぶやく。

「やはり、銃程度では無理だ」

 ケイコが言う。

「同じ場所を続けて撃てば砕けるかも」

「いや、無駄だ。弾もあと一発しか入っていない」そして、ベッド脇のクローゼットに向かう。扉を開くと、その脇を探る。「あったぞ!」

 黒服はクローゼットの衣類をかき分けて中に入った。金属製の大きな黒いボンベを部屋の中に引きずり出して転がす。小柄な大人の背丈ほどの長さがあった。

 矢作が問う。

「何だ、そのボンベ⁉」

「酸素だ。部屋を封鎖する場合に備えて、どの部屋にも準備してある。まだ3本残ってる。時間がない! 手伝え!」

 確かに、『医療用酸素』の白い文字が記されていた。

 矢作もボンベに飛びついた。片側を持ち上げて引きずる。体感的には60キロほどの重さがありそうだ。

 彼らはボンベを部屋の真ん中まで運び出した。黒服が次々にバルブを開いていく。

「君たちは隣の部屋に。液体酸素がかかると凍傷になる!」

 ケイコが矢作をドアの外に押し出す。自分はクローゼットに入って、中の服を外に放り出していく。

 黒服は腹から吠え声を絞り出すと、重いボンベを担ぎ上げた。重量挙げにも相当するパワーを吐き出している。そのボンベの底を、下のボンベのバルブに向けて叩き落とす。

 バルブが外れて部屋の端まで吹き飛ばされる。窓に当たって跳ね返ったバルブが、床に転がされたままの黒服の死体に突き刺さる。死体は〝くの字〟に折れ、一メートル近く転がった。ボンベから吹き出す液体酸素が床に溢れ、ウールのカーペットに染み込んでいく。

 ケイコは沸騰する液体を避けながら、その上にクローゼットから出した衣類を積み上げた。

 矢作はドアから顔を出してそれをじっと覗き込む。

「何やってんだよ……?」

 ケイコが再び矢作を押して部屋を出る。

「この部屋を爆破するのよ! なるべく離れて!」

 黒服が影武者の襟首を掴んで引きずり、ドアの外に蹴り出す。あとに続いた黒服は部屋を出ると、中に向かってためらわずに銃の引き金を引いた。

 凄まじい爆発音が部屋を揺るがし、吹き飛んだドアから炎が吹き出した。壁も大きく揺らぎ、無数のヒビが入る。床を這っていた影武者が馬に尻を蹴られでもしたように転がった。素早く身を翻した黒服も、間に合わずに吹き飛ばされる。

 振動が収まると、ケイコは再び部屋に飛び込んだ。

 部屋の内部は一瞬で煤けた火事場に変わっていた。カーペットは燃えてめくれ上がり、焦げた臭いを充満させている。二つの死体の表面も真っ黒焦げになっていた。爆発した酸素ボンベの破片が転がり、一部が天井に突き刺さっている。散乱した家具類が小さな炎を上げている。

 そして、セルロースナノファイバーの窓がすべて外側に吹き飛ばされていた。割れないまま窓枠から外れて、外側の手摺に倒れ掛かっていたのだ。強い風が吹き込んで新鮮な空気が流れ込む。

 ケイコはさらに矢作の腕を引いて、倒れた窓の脇に身をくぐらせてベランダに出た。風が強まる。

 ペントハウスの周囲には幅2メートルほどのテラスが巡らされていた。建物の外周をぐるりと囲んでいる。外側に、落下防止用の金属製の高い手すりが付けられていた。矢作は倒れて手摺に寄りかかっている巨大な窓を避けながら、縁に近づいた。下を覗く――。

 凄まじい高さだった。35階だ。150メートルに近いはずだ。『SHINOBI』の最終ステージでは高さ20メートルを超える塔にロープで登ったが、まるで比べ物にならない浮遊感がある。鍛えられた矢作でさえ、一瞬、目がくらむ。

「ここから逃げろってか……? どうやって⁉」

 矢作の隣で目を凝らしていたケイコが、正面のタワーを指差す。距離は、50メートルほど離れている。

「多分、あっちで準備が進んでいる。間に合わなければ、ここで死ぬだけ」

「ふざけるな⁉ 俺は死ににきたんじゃない!」

「なら、生き延びる努力をしなさい」

 そのとき、神崎の声が届いた。

『今、武器庫に到着した。そちらにロープを渡すが、間に合わない。気化爆弾が爆発する。すぐに逃れろ! だが、タワーの下にも敵がいるぞ!』

 矢作が建物の外に出たことによって、通信機能が復活したのだ。

「気化爆弾って、何だよ……」

 反応したのはケイコだった。

「通信が入ったの⁉ 気化爆弾を使う気⁉ 助からないわよ! いつ爆発するの⁉」

「すぐ逃げろって!」

「助けは来るの⁉」

「こっちにロープを渡すけど、下にも敵がいるって!」

 ケイコはうなずくと、周囲を見渡した。手摺に、赤い箱が固定されている。“Fire Alarm and Escape Box”と記されている。箱の上に、ドラムに巻き付けられた細いワイヤーロープがセットされていた。箱を開くと、がっちりとしたハーネスが収容されている。

 高層ビルからの脱出用具だ。ハーネスを装着して手摺の外に飛び出せば、ゆっくりとロープが伸びて地上に降りられる。ハーネスを外せば自動的にロープが巻き上げられ、次の人間が降りられる仕組みだ。

 ケイコは箱からハーネスを外して、ロープを引き出し始めた。

 矢作が叫ぶ。

「それで降りろよ! 下まで届くんだろう⁉」

「降りたら、あなたも射殺されるわよ。もう私たちの仲間なんだから」

 矢作は下を覗き込んだ。確かに、警備員のような制服を着ている者たちがこちらを見上げている。数は二〇人に近い。中には、小銃を向けている者もいる。矢作たちを撃とうとしているのだ。

「じゃあ、どうやって⁉」

「ここでロープを押さえてて。あなたはハーネスを付けて!」

 ケイコはハーネスを矢作に渡すと、さらにロープの根元を引き出すと、緩んだロープを手すりに縛り付ける。手すりから10メートルほどぶら下がるロープを作ったのだ。

 そして矢作がハーネスを装着したのを確認すると、命じた。

「手すりを越えて、跳ぶのよ」

「まさか……」矢作は手摺を掴んで下を覗く。やはり目眩を誘う高さだ。「ここから跳べって……?」

 矢作も、逃げなければならないこと分かっている。すでに目の前で何人もの人間が殺されている。とっくに緊急事態のど真ん中に立たされているのだ。

 それでも、怖いものは怖い。しかも、下からは銃で狙われている。気化爆弾が何かも、分からない。

 後ろから、ケイコが矢作を押し上げる。

「早く!」

 そして、自分も手すりに両手をついて身体を持ち上げる――。

 その瞬間だった。建物の中から爆発音が聞こえた。二人に吹き付けていた風が急激に反転した。身体がホテル側に引き込まれそうになって、ぐらつく。

 ケイコの反応は速かった。手すりの上でためらう矢作の腰に腕を回すと、思い切り空中に飛び出す。同時に、二人を引き戻そうとするように突風が吹いた。空気がホテルに吸い込まれている。

 二人はそのまま、風に逆らって10メートルほど落下した。ケイコの腕が矢作を締め付ける。ロープがピンと張ると、矢作の身体を激しいショックが襲う。肺から空気が絞り出される。次の瞬間、二人はホテルを覆った外壁に叩き付けられた。ケイコの身体がずるっと下がるのが分かった。矢作はハーネスでロープに結ばれているが、ケイコは手を離せば真っ逆さまに落下する。

 頭上で、凄まじい爆発音が起こった。

 矢作は、ロープで揺られながら階上を見上げた。頂上から三階分ほどが、水圧で潰される潜水艦のようにべこっと凹む。矢作たちの身体もその振動で揺らぐ。次には、砕けた窓から巨大な炎の固まりが膨れ上がる。視界が真っ赤に染まった。激しい熱気が二人に襲いかかる。タワー全体がぐらぐら揺れ、その度に二人はセルロースナノファイバーの外壁に叩き付けられた。

 ケイコが飛び出すのが一瞬でも遅れていたら。二人はその炎に焼かれていたのだ――。

 矢作は両手でロープをつかみ、両肘で頭を守っていた。だが、外壁にぶつかるたびに身体が回転する。ケイコが、矢作とホテルの間に挟まる。ホテルに衝突したとき、ケイコの腕がわずかに緩んだ。一瞬、ケイコの身体が矢作から離れ、滑り落ちた。

 矢作の右手は反射的にロープを離し、ケイコの手首を掴んでいた。ケイコが、矢作の手首を掴み返す。ケイコの身体は、二人の握力だけで重力に逆らっていた。どちらかが手を離せば、ケイコは地面に叩き付けられて潰される。

 頭上の振動はまだ続いていたが、弱まりつつある。爆発の激しい衝撃は過ぎ去ったが、どこからともなく建物がきしむ音が聞こえる。と、突然二人の身体ががくっと下がった。落ちたのは10センチほどだが、その衝撃でケイコの手がわずかにずれる。矢作は握った手のひらに力を込めた。

 ロープを結んだ手摺が、ぐらついているのだ。あるいは、ロープがほどけかけているのか……。再び強い風が吹いて、周囲に漂っていた硝煙を一気に吹き払う。

 ケイコが穏やかな口調で言った。

「手を離して」

 矢作には、自分を劫火から救ったケイコを見捨てることはできない。

「バカを言うな」

 ケイコの声は冷静だ。

「わたしは、あなたをここから先に送り込むために選ばれたの。あなたはあっちのタワーに行って。このままじゃ二人とも落ちる」

「俺が手を離さなければ大丈夫だ」

「手すりが落ちたら終わり。その前に、あなただけ上に登って」

 確かに、手摺がぐらついている感触があった。長時間は二人分の体重を支えられそうもない。

 矢作は決断した。

 ケイコと共に脱出するか、共に死ぬか。どちらかしかあり得ない。そう、決めた。

 どうせ自分は、生きる目的を失った男だ。何度も命を救ってくれた恩人を見捨てては、生きる価値さえない。脅迫されたこととはいえ、犯罪にも手を染めた。自分では手を下していなくとも、人殺しにも加担した。国民の一人として支えるべき国をも、裏切った。命じられたことは、残らず実行したのだ。ここまで従えば、息子たちに危害が及ぶこともないと確信できた。

 矢作は、もうためらわなかった。ただ一つ、この危機からケイコとともに生き延びることしか考えなかった。犯罪を犯すことへのためらいも、殺人への恐れも、何もかもが頭から吹き飛んでいた。

 残ったのは、むき出しの生存本能だけだ。

 この障害をどうやって乗り切るのか――。

 状況は、あまりにも過酷だ。テレビ局が作った〝まがい物〟ではない。文字通り、命が賭けられている。『SHINOBI』などよりはるかにエキサイティングではないか――。

 腹を括った矢作の全身に、爆発的な量のアドレナリンが駆け巡る。同時に、頭脳は冷静に冴え渡っていく。神経が研ぎ澄まされて、視界がクリアに変わる。身体と心がぴたりと一致して、どんな離れ業でも自在にできる気になる。身体の中心から力が沸き上がってくる。

 それこそが、矢作が『SHINOBI』に求め続けた至福の瞬間だ。この感覚を得るためだけに、人生を棒に振ったのだ。

 二人の身体は、ロープにぶら下がったままホテルの壁面に触れていた。矢作は、改めてアスリートの視点で壁面を観察した。落ちた瞬間は気づかなかったが、壁面すべてが継ぎ目のない板で覆われている訳ではない。窓は塞がれているが、それ以外の場所には様々な手掛かり、足掛かりが残っている。高さを考えなければ、中級者向けのフリークライミングのコース程度の難易度だ。上までは、ほんの10メートル。落ちさえしなければ、楽勝だ。下を見なければいいだけだ。

 矢作はロープを握った左手を離した。ハーネスだけでぶら下がる。そして、自由になった指先でホテルの壁面をまさぐった。壁の切れ目に指を差し込む。深さ、およそ2センチ。『オーバーハング』エリアの出っ張りよりははるかに掴みやすい。

 矢作は吠えた。

 指先の握力と左腕の懸垂力だけで、二人の身体をゆっくり持ち上げていく。50センチ上げると、全身の筋力で圧迫された肺から声を絞り出した。

「右斜め上……指先が入る凹みがある……」

 手掛かりさえあればケイコがこの壁を登れることは分かっている。この女は、そういう身体をしていた。

 期待通り、反応は速かった。

「あったわ。ありがとう」矢作にぶら下がっていたケイコの重量が急激に軽くなる。「もう、手を離していいわよ」

「本当に大丈夫か?」

「上まで、競争しましょうか?」

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