黒服は何も言わずに、周金幣の耳をナイフで削ぎ落とした。一切の説明もなく襲われた周が、獣じみた叫びを上げる。

 黒服が何事かを命じる。

 ケイコが矢作に翻訳した。

「北京語。送金装置はどこか、聞いてるわ」

 血を噴き出す耳を押さえた周が喚き立てる。命乞いなのか言い訳なのか、黒服の問いに答えているようには思えない。

 周の容貌に、かつて世界に配信された映像で見ていたような威厳はなかった。最後に撮影された映像よりずっと太ったように思える。なのに、中国共産党総書記として世界と渡り合っていた頃の〝尊大さ〟が微塵も感じられない。自信を失った独裁者の悲哀ばかりが目立つ。それがこの男の本質なのかもしれない。かつての姿の方が、威厳を保つために作られた〝幻〟だったのか……。

 矢作には、周が痛みと怯えに我を失ったネズミのように思えた。惨めな姿だ。こんな男と自分が同じDNAを持つことが信じられない。なのにそれが、非情な犯罪に巻き込まれた原因だ。

 理不尽すぎる。

 矢作は、彼らの姿をぼんやりと見つめていた。黒服が周を拷問する間に、呼吸を整える。だが、心臓の鼓動はトップギアに入ったままだ。目まぐるしく疾走する事態に振り回され、心も頭も追いついていけない。激しい疲労感に襲われる。肉体的な疲れではない。

 自分がこんな場所で人殺しに加担している現実が受け入れられない。家族を救うためだとは分かっている。頭では分かってはいても、心が一致しないのだ。まるで、他人の頭の中から周囲を眺めているような、落ち着かない気分だ。

 黒服は周の首の下にナイフの刃先を軽く当てた。そして、中国語で吐き捨てるように何かを命じる。

 息を呑んだ周が、ぽつりと答える。

 黒服が日本語で言った。

「場所は分かった。もう黙れ、豚」

 ケイコも周の答えを聞いていた。

「ベッドの下ね」ケイコは傍らにあったベッドに歩み寄り、そのマットをはぎ取った。その下に、トランク型の装置が隠してあった。5号様の部屋で見たものと同じだ。「あったわ」

 何かを叫び始めた周を、黒服がナイフで脅して黙らせた。

 ケイコが装置の蓋を開き、スイッチを入れた。矢作の腕を引く。

「さあ、指を押し付けて」

 矢作はつぶやいた。

「この機械、精神状態が分かるんだろう……? 俺、今、すっごいストレス感じてるんだけど……大丈夫なのか?」

「とにかくやってみて!」

 矢作はDNA検出器に指を押し付けた。ちくりと、皮膚に針が突き刺さるような刺激があった。

 ――だが、それ以上何も起こらない。30秒……1分……。ただ、時間が過ぎていく。装置は起動しない。

「ほら……やっぱりダメじゃないか……」

 神崎の声。

『どうした⁉ 起動しないのか⁉』

「だめだ! 俺のせいじゃない! 目の前でばたばた人を殺しやがって、普通でいられる訳がないだろうが!」

 神崎の声にはわずかな焦りが感じられた。

『分かってる。だが、時間がない。看守! 周に操作させろ!』

 ケイコは認証装置の横のリセットボタンを押す。

 黒服が周金幣を引きずってベッドに押し出し、背後から腕を掴むと装置に指を押し付けた。

 だが、反応はない。怯えきった周が、正常に装置を動かせるはずがないのだ。ジーンゲイトは、こうやって〝入口〟を守っているのだ……。

 と、黒服が周の手首に張られた大型の絆創膏に気づく。黒服は周の手首を捩じり上げると、絆創膏をはぎ取った。

 不意に叫ぶ。

「違う! こいつは周じゃない!」

 神崎が叫ぶ。もはや焦燥が隠せない。

『何だと⁉ どういうことだ⁉』

「リストカットの傷があります。しかも、化膿しています。何度か自殺を試みたことは確実です。自ら望んでここに逃げ込んだ男が、なぜ手首を切るんですか⁉ なぜ、医務室で治療しないんですか⁉」

 一瞬、神崎が息を呑む気配があった。

『影武者、か……。取り巻きに監視されながら監禁されたことで精神を病んだのか……。こちらの医師が診察すれば本人ではないことが暴かれるから、治療もさせなかったのだな……。装置を詳しく調べろ!』

 黒服が手を離すと、〝周〟は追われたゴキブリのように素早く這って部屋の隅に丸まった。中国語でぶつぶつつぶやきながら、頭を抱えて泣いていた。

 黒服がベッドの奥から装置を持ち上げる。チェーンには繋がっていたが、5号様の装置ほど重そうに見えない。

 ケイコが身を乗り出して、装置を奪った。

「軽すぎる! 偽物なの⁉ ナイフを貸して!」

 黒服が差し出したナイフを取ると、筐体と中の装置の継ぎ目に差し込む。ナイフの尻を平手で叩くと、隙間が広がって刺さっていく。ナイフを梃子にして中身を持ち上げると、あっさりと筐体から外れた。

 中身は空だった。

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