フェイズ2――突破

 矢作に、監禁された建物を出た記憶はなかった。あれこれ詳しい説明をされた後に、部屋を与えられて仮眠を取ったはずなのだが……。

 また、薬品で意識を奪われたのだ。その後、どれだけの時間が経過したのか? 

 気づいた時には、揺れる〝部屋〟に閉じ込められていた。

 矢作がベッドで意識を取り戻すと、どこからともなく声がした。

『おはよう。ここは、20フィートコンテナの中だ。トレーラーに引かれて移動している。行き先は教えられないので我慢してほしい。中の物は自由に使ってくれて構わない』

 矢作は周囲から隔離され、外が一切見えない〝部屋〟で揺られて過ごした。コンテナの内部にはキャンピングカー並みの設備が整えられていた。一人きりだったが、電子レンジで暖めるだけの食事やシャワーなど、日常生活に不自由はなかった。だが、走り続ける車がどこに向かっているのかは全く分からない。車は長時間停止していたこともあったが、かすかな揺れは止まらなかった。矢作はフェリーに乗っているのだろうと考えた。

 本州を離れたのだ。

 スマホも取り上げられ、テレビやネットの利用もできなかった。外部との通信は一切許されず、時間の感覚もなくなった。無為に過ごす中で考えたのは、別れた妻子のことばかりだった。なぜか、これから先の心配は一つも浮かばない。

 思い出すのは、生まれたばかりの息子を抱き上げたときの感覚だ。あまりの軽さに、壊してしまわないかと怯えたものだ。毎日、帰宅するのが楽しみだった。息子を抱きしめて微笑む妻を見るのが、一番の幸せだった。

 そう信じていた。

 だから一度は、『SHINOBI』を捨てる覚悟を決めたのだ。だが、自分を騙し続けることはできなかった。目標を失った矢作は、生活の張りも失っていった。弛緩した時間が次第に矢作の心を蝕み、仕事でも充実感を得られなくなった。歩調を合わせるように、幸せだったはずの家族の団らんも色あせていった。

 それに反して、妻は輝いていった。息子と〝暖かい家庭〟を得て、落ち着きを増した。やっと手に入れた〝穏やかに続く未来〟に安堵し、満足したのだろう。生活は厳しかった。ぜんそく持ちの息子は入院がちで、治療に労力を費やした。やり繰りできたのは、高度に整備された日本の医療レベルと健康保険のおかげだ。妻にとってはそのつらさも、ある種の喜びだったように見えた。息子を連れて病院から戻ったときの笑顔の呟きは、いつも『日本人でよかった……』だった。

 妻が満足するに従い、矢作は逆にいらだつことが多くなった。持て余した体力と時間を注ぎ込む当てもなく、妻に対して刺々しい態度を取ることさえあった。〝穏やかに続く未来〟が、矢作の〝野生〟を締め付けていったのだ。挑む対象を失った矢作にとっては、がんじがらめに縛られた未来でしかない。矢作自身は、気づいていなかった。その息苦しさがどこから来るものか分からずに、悶々としていただけだ。

 生きながら、腐っていったのだ。

 非が自分にあることは分かっていた。これまで矢作の我がままを許して堪え続けた妻を、非難できるはずがない。だが、心の奥で暴れる野生を抑える術は知らなかった。危ういバランスを取りながらも家族でいられたのは、息子がいたからだ。その均衡を壊したのが、『SHINOBI』からの招待状だった。

 矢作はその記憶を捨てることができなかった。人生のターニングポイントを誤った瞬間があるなら、あの時だ。きっぱりと家族を選んでいれば、『SHINOBI』に叩きのめされることはなかった。仕事を失って、雇用保険の入金を心待ちにすることもなかった。養育費を工面できずに、己の無力さに自尊心を苛まれることもなかった。すべてを失うことはなかったのだ。

 そして、犯罪を強要されることもなかっただろう。息子や自分を守ってくれた母国の法を犯すことなど、考えもしなかっただろう。

 それでも矢作は、今でも二人を〝家族〟だと思っている。たとえ元妻が再婚しようとも、息子との血の繋がりは変わらない。そう信じていられなければ、自分支えるものがなくなる……。

 矢作は今、一度は捨てた家族にすがるしかない立場にあるのだと思い知った。住んでいる土地に、世間話ができるような知り合いはいない。暇な夜でも、酒を飲みに誘えるような友人はいない。心から理解し合える〝親友〟と呼べるのは、シノビオールスターズの仲間たちだけだ。だが『SHINOBI』を捨てた自分は、もはや彼らの元には帰れない。残っているのは〝家族〟しかない。

 自分の我がままは決して許されなくとも、息子とは動かし難い血の絆がある。その絆が、矢作をこの世界につなぎ止めている唯一の証だ。家族が消えれば、自分も消えたも同然だ。命に替えても、家族は守らなければならない。自分に運があるなら、彼らに幾ばくかの財産を手渡すこともできる。

 それが犯罪であろうと、自分の能力で未来を切り開くチャンスが与えられたことは事実だ。失敗しなければいいのだ。たとえ失敗しても、家族だけは守り通せる。

 二度と選択を間違えることはできない。

 この先、何を要求されるのか――他人の財産を奪うことを覚悟決めた今は、それ以上考えたくもなかった。彼らは、自分を刑務所に潜入させて何を企んでいるのか……。それがどれほど非人道的なことだとしても――たとえ、人の命を奪うことになっても、もはや言いなりになるしかない。犯罪者として投獄される結果になっても――その危険は極めて高いが、諦めるしかない。拒否すれば、息子たちに危害が及ぶ。矢作を徹底的に調べ上げ、その力を計るためにあれほど大掛かりな設備を揃えた組織なら、できないはずはない。やり遂げる意思も疑いようがない。

 矢作は息子たちを傷つけた。二人の未来をこれ以上壊すことはできない。組織が二人に近づくことは、何が何でも防がなければならない。自分の人生と引き換えにしても、守り抜かなければならない。大事なのは、刑務所に入っている犯罪者の財産ではない。矢作にとっての〝家族〟だ。

 矢作ができることは一つ――組織の言いなりになることだけだった。

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