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矢作は、すべての競技が終了するまで会場に残ることをテレビ局から求められていた。オールスターズの一員なら、当然、画面に映っているべきだと分かっている。不文律だ。だが、できなかった。二度もファーストステージで落伍した自分を、もはやシノビ・オールスターズとは呼べない。
去るしかない。
家族も仕事も失った。すべてを賭けた『SHINOBI』も失った。人生のステージから落ちこぼれた敗者として――。
色濃い緑に囲まれた野外スタジオの敷地には、快い風が吹いていた。真夏の暑さも一段落している。スタジオの出入り口は、競技を終えた参加者やその家族と応援団でごった返していた。その人ごみにまぎれてひっそり消えるのが、今の自分にはふさわしく思えた。濡れた着替えを詰め込んだボストンバッグが異様に重く感じる。
群衆の中に、よく見かけるハゲ頭の中年がいた。毎回出場しては、最初の数歩で池に呑まれる常連だ。放送時には、ラーメン屋の店主だと紹介されていた記憶がある。番組化する際に尺を増し、親近感と笑いを得るために選ばれた〝道化〟の一人だ。局は彼に、派手に池に落ちる絵づらしか求めていない。本人もそれを承知していて、毎回、無意味なパフォーマンスを繰り返している。
矢作は会場で顔を合わせるたびに握手を求められたが、名前さえ覚えていない。
幾分か腹が出たその男は、家族や部下の店員らしい男たちの輪の中で笑っていた。
「これで五回目だぞ、しょっぱなから池に落ちたの! 次こそ『ジャンプストーン』だけはクリアするぞ! さ、気分を変えて呑みに行こう! がははは」
矢作は彼の目に留まらないように身を屈めながら、小さくつぶやいた。
「そんなんだから落ちるんだろうが。『SHINOBI』を舐めるな……」
矢作は、真剣に立ち向かってきた。そして、打ち倒された。
『SHINOBI』を舐めきって、中途半端に取り組んできたハゲ頭は、家族と仲間に囲まれて笑っている。おそらく今日は、ラーメン屋も臨時休業してみんなで応援に来たのだろう。まるでピクニックだ。普段も、トレーニングなどしていないに決まっている。本気で挑んでいれば、腹が出るはずなどないのだ。
ふざけている。なぜ、真剣にチャレンジしないのか……。
それなのに、なぜそんなに満足そうなのか……?
『SHINOBI』は、ただのレジャーに過ぎないのか……?
矢作は笑えない。ひたすらストイックに挑んできたのに、笑えない。
〝悪魔の要塞〟に破れたからか? いや、敗れたという以前に、門前払いを喰らったのが現実だ。俺の本当の実力はこんなもんじゃない……とは思う。だが、これが実力なのだ、とも思う。
笑えるはずがなかった。
それなのに、自分とは対極にある万年敗北者のハゲ頭は、げらげら笑っている。仲間に囲まれ、一緒に笑っている。この屈託のなさは、何なのか……。
それが結論だ――と気づいた。ここでも破れたのだ。矢作の人生は、ふやけたハゲ頭に完膚なきまでに叩き潰されている。
人生の勝者は、あのハゲ頭だ。
涙がにじむ。脚が速まる。そして思い知った。
自分は、逃げ出そうとしている。〝こここそが俺の居場所だ〟と決めたスタジオに背を向け、身を屈めて、こそこそと――。
周りに人がいなければ、叫びたかった。飢えたオオカミのように、天を仰いで吠えたかった。思い切り涙を流しながら、誰かにすがりたかった。すがれる人間は、いた。たった一人、自分の我がままを許してくれた妻だ。その妻を拒否したのは、矢作自身だ。小さなプライドを守りたいという我がままを押し通すために、妻と息子を捨てたのだ。
矢作の周りには、もう誰もいない。
誰も……。
と、背後から声をかけられた。
「矢作さんですよね?」
とっさに、逃げ出そうとしていた。声の方向に目を向けることもできない。
これまでも、『SHINOBI』の制覇者として会場で声をかけられることは多かった。彼らはヒーローとしてサインを求めてくることもある。そんな彼らと、今、言葉を交わすのは無理だ。
不意に背後から腕をつかまれた。
矢作は、いらだちを抑えられなかった。
「ほっといてくれ!」
振り返って相手を睨む。
予想していたのはTシャツ姿のマッチョ、あるいはイベントの雰囲気でハイになった家族連れだった。だが、そこに立っていたのは高価そうなダークグレーのスーツを隙なく着こなした証券マンを思わせる男だった。兜町ではありふれていても、『SHINOBI』の会場にはそぐわない姿だ。
男は、まるで録音を再生するように繰り返した。
「矢作さんですよね?」
矢作は訝りながらもうなずいた。
「そうですが……どちら様でしょう?」
男は辺りを見回し、矢作に身を寄せる。
「ここは人目が多い。しばらくおつきあい願えませんでしょうか?」
「はい? どんな御用でしょう?」
「我が社のCEOが、ぜひともお話を聞いていただきたいと申しておりまして……」
矢作は、人違いだと思った。自分の人生は、小奇麗なスーツを着る人種とは接点がない。CEOなどという言葉も、新聞やネットの上で踊る〝知識〟の一つにすぎず、それが意味する本当の価値さえ知らない。男が別世界の人間だということは、皮膚感覚で分かった。
だが男は、相手が矢作だと確かめた上で話をしている。
「我が社って……ですから、どちら様?」
「ぜひ、詳しいお話をさせていただきたい。多額の報酬も用意しております」
報酬――。
聞き捨ててはおけない言葉だった。矢作は文字通り、持てる物すべてを今回の『SHINOBI』に注ぎ込んでいた。
仕事はクビになった。トレーニング用に作った模擬ステージにはバカにならない金額を費やした。貯金の残りは訓練期間の生活費に消えた。今回のわずかなギャラも、すでに支払先が決まっている。明日からでも新しい仕事を得なければ、3ヶ月溜めた家賃の支払いのメドが立たない。
多額の報酬に心が動かないはずがなかった。金があれば、妻が『いらない』と言った慰謝料や養育費も渡せる。それができるなら、男としての体面も辛うじて保てるだろう。人並みの稼ぎが望める仕事に就けるなら、復縁の可能性もある。3歳になったばかりの息子と、もう一度暮らせるかもしれない……。
自分が愛想笑いを浮かべたことに気づく。卑屈だな――とは思いつつも、無視などできない。
「お仕事のことでしょうか? それならぜひ、聞かせてください」
男はかすかに微笑みを返し、スーツの襟元をつまみ上げて囁いた。そこに、マイクが隠されているようだ。
「迎えをよこすように」
その姿は、アメリカ大統領のSPを連想させた。不意に、男の体格が異様にがっちりしていることに気付いた。ただの〝証券マン〟ではありえない。矢作の愛想笑いが引きつる。
〝仕事〟という言葉が、突然、危険なものに思えた。未知の世界への恐怖感が首をもたげる。それでも、このチャンスは逃せない。家族を取り戻すためには、逃すわけにはいかない。
おそらくは、最後のチャンスだ。
覚悟を決めるのだ。『オーバーハング』で背面の壁に向かって跳ぶ、あの瞬間のように。
一分後、二人の前に現れた車は黒塗りのトヨタ・センチュリーロイヤルだった。ガソリンスタンドで働いていた矢作でさえ、現物を見たことはない。その車が皇室で使用されている物と同じグレードであることなど分かるはずもなかった。
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