ファントム・プリズン
岡 辰郎
フェイズ0――脱落
1
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この物語は2017年段階の国際情勢をもとに、当時の近未来を描いています。
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それが、矢作直也の人生が終わった瞬間だった。
泥水が口に入り込む。敗北の味だ。過去に一度も落ちたことがない、ファーストステージ開始直後の池の中だった。目立ちたがりの素人や売名目当ての芸人たちを呑み込んできた、非情な関門――。100人の出場者のうち、この関門を越えられるのは10名前後にすぎない。体力と技術、そして魂を備えた〝本物〟だけを峻別する冷徹なフィルターだ。
矢作のような〝スーパースター〟が陥ることなど、あってはならない罠だ。
だが、呑み込まれてしまった。濁った水に視界を奪われながらも、周囲のどよめきが高まるのが分かった。
悲壮感をかき立てる大げさな会場アナウンスが耳に届く。
「ああ……なんということでしょう! シノビ・オールスターズの一角が……しかも、かつて完全制覇を成し遂げた矢作直也が……スタート直後に脆くも崩れ去るとは……前回の失敗を挽回すべく、満を持して挑んだはずなのに……いったい誰が、こんな番狂わせを想像できたでしょうか……⁉」
水中でもがく矢作の心にも、その声が突き刺さる。
本当にスタート直後だった。池に点在する飛び石――『ジャンプストーン』を軽々と越え、一抱えもある丸太にしがみついた。『ローリングログ』と名付けられたセクションだ。丸太が激しく回転しながら緩い傾斜を10メートルほど下る――遠心力に逆らっているだけで、簡単にクリアできる障害だ。
だがその時、矢作の頭は第三ステージの攻略法でいっぱいだった。自分が本当に試される難関は、そこにある。ファーストステージの初歩的な障害など、失敗するはずがないだけの経験を重ねている。前回の失敗はファーストステージクリア直前に起きた。直前の新参者が、たっぷりと時間を余らせてステージをクリアしたことに軽い衝撃を受たのが原因だった。対抗意識がかき立てられ、時間短縮を意識するあまり、気持ちにわずかな焦りが生まれていた。だからこそ今回はタイムにこだわらず、可能な限り体力を温存しながら気持ちに余裕を持って次のステージに進みたかった。それが逆の意味での強迫観念になっていたことに思い至らなかった。自らにストレスをかけ過ぎていた。
油断だった。丸太を抱え込んだ右足のかかとがわずかに滑った。そこに、回転の遠心力が集中した。瞬時に危機感が爆発し、気持ちのバランスが崩れた。気づいた時には、池の中でもがいていたのだ。
何が起きたのか、矢作自身が理解できなかった。
分かるのは、すべてが終わった――ということだけだ。
すべてが――。
年に数回、不定期で開催される『SHINOBI』と命名されたその〝競技〟の規模は大きい。東京ドームを超えるといわれる広さの屋外スタジオに構築された超巨大な〝フィールドアスレティックコース〟を攻略する、テレビ番組だ。〝悪魔の要塞〟とも呼ばれる、鉄骨で組まれたステージを制覇する〝競技〟は、今や世界中のテレビ局に配信される人気イベントに成長している。一般参加希望者は毎回数千人を超え、厳しい予選を経て選ばれる。だが、本質は視聴率稼ぎの〝障害物競走〟にすぎない。たかが、体力自慢が技を競い合うテレビ局の企画だ。優勝できたところで、オリンピックのメダリストように栄誉が得られる訳でもない。優勝賞金も、たった200万円にすぎない。
人生を賭けるに値するほどの価値はない。
矢作も、そんなことを何度となく自分に言い聞かせてきた。
無駄だった。
一度その魔力に取り付かれたものは、逃れられない。倒さなければならないのは、自分自身だ。ファイナルステージの頂上に立てない自分を乗り越えることが、生きる目的になる。自分の限界を突破した瞬間の喜びは、何物にも代えられない。体中を駆け巡るアドレナリンと脳内に充満するドーパミンが、それまで味わった苦痛と苦労のすべてを吹き飛ばす――。
実際に、過去何人ものオリンピックメダリストが参加してきたが、彼らがサードステージまで進んだことはない。筋力や持久力、あるいはスピードに特化した陸上競技などとは違い、精神と肉体のすべてを統合できなければ先に進むことが叶わないのだ。どのステージも落下や打撲の危険が高く、事故に備えて身体検査はもとより血液検査までが義務づけられている。内臓疾患などを持つ者を参加させて死亡者などが出れば、『SHINOBI』の歴史を終えなければならない危険があるからだ。それだけに、かつて完全制覇を成し遂げた矢作は周囲から尊敬され、英雄視されていた。メダリストを凌ぐ、草の根のヒーローといってよかった。
ステージは、どれも過酷だ。『ローリングログ』を越えても、そそり立つ壁に飛びついて這い上り、揺れる平均台を渡り、ロープにぶら下がって網梯子に飛び移る――そのすべてを、泥水が満たされた池の上で行うのだ。力だけでは越えられない障害ばかりだ。そんなファーストステージは、まだほんの小手調べだ。
セカンドステージでは、向き合う壁に手足を突っ張りながら這い上る『スパイダーガイ』、逆流する水槽の中を泳ぐ『フラッドチューブ』、両手で握った鉄棒を体の反動で跳ね上げて垂直の壁を登る『フィッシュラダー』などの難所が連続する。それを、厳しい時間制限の中で征服しなければならない。
それですら、次に待ち受けるサードステージの過酷さには及ばない。中でも圧巻は、『オーバーハング』と名付けられたエリアだ。そこでは、ほんの3センチほどの厚みしかない横木に指先だけでぶら下がりながら5メートルほど横に移動し、段差がある横木に乗り移り、さらに全身を揺らした反動で背中側の壁に飛び移る。身体を回転させて飛んだ先で掴むのもまた、3センチの出っ張りだけだ。そのすべてを、指先だけで支える。握力や腕力は当然のことながら、バランス感覚と反射神経、勘と運、恐怖を乗り越える精神力のすべてが重ね合わさらなければ組み伏せられない障壁だ。そうやってゴールに達した者にだけ、ようやく最後の試練に挑む資格が与えられる。
ファイナルステージでは、高さ25メートルの鉄塔から垂れ下がった縄をひたすら登る。時間制限は30秒。最終ゴールに向けて登るだけのシンプルなステージではあるが、それまでに気力と体力をしぼり尽くされた身体には果てしなく高い壁に思える。だからこそ、頂上に置かれた赤い〝クリアボタン〟を時間内に叩くことができた瞬間の喜びは何物にも例えられない。
矢作は一度、それを味わっている。すでに40回を越えるこの競技の中で、全ステージをクリアしたことがあるのはたった六人しかいない。その中の一人だった。
これがオリンピック競技なら、毎回同じルールで繰り返される。障害の内容が変わることもない。矢作は、一度はトップに立った者として、記録され、記憶され、将来の制覇者とも同じ土俵で比較される。
それが、スポーツだ。
だが『SHINOBI』はテレビ企画にすぎない。ルールを決めるのは主催する局であって、視聴率を維持するためには何でもする。何でもできる。だから『SHINOBI』のステージは、クリアする者が出るたびにより複雑に、より過酷に進化する。参加者は、課題を乗り越えるたびに新たな課題を抱え込む。しかも、より若く、より高いポテンシャルを持つ参加者が世界中から集まって、背後に迫る。制覇者は行く手を阻まれ、背後から追われ、己の衰えにおびえ、それでも走り続けなければならない宿命を負う。
新たな制覇者が現れれば、過去の記録は忘れ去られるからだ。『昔のステージなんて、子供騙しみたいだったよね――』と。それが『SHINOBI』制覇者の宿命だ。
辞めればいいのだ。誰も止めはしない。〝悪魔〟にあざ笑われて惨めな骸をさらすよりも、過去の輝きだけを胸に抱き、立ち去ればいい。なのに、リタイヤすることを許せない。自分が打ち倒した〝要塞〟が凶悪な表情で蘇れば、再び挑まずにはいられない。自分はまだやれるんだと証明できなければ、己を納得させることができない。
肉体の劣化を拒絶するかのように――。
たとえ家族を失っても――。
そう感じさせるのが、このゲームだった。
だが現実は非情だ。
観客や視聴者は、いや、ともに挑み続けたオールスターズの仲間でさえ、二度も続いた失敗が単なる不運だと思うかもしれない。矢作自身も、そう思いたかった。だが、答えは出てしまった。もはや、それが必然であると認めるしかない。
ほんのわずかな握力の低下、ジャンプの高さ不足、タイミングを計る感性のズレ――それぞれの差は、微々たるものだ。自分ですら、かすかに舌打ちをする程度にすぎない。だがそれが重なると、結果が変わる。
それが、衰えだ。
矢作は、自分が〝悪魔の要塞〟に挑む権利を失ったことを思い知った。
たかがテレビ番組じゃないか……。そう呟きながら空っぽな毎日をやり過ごす未来を、受け入れるしかない。
泥水の中でもがきながら、涙がにじむのを感じた。
妻と息子を失ったのは、いったい何のためだったのか? 二人が去ることと引き換えに得たこのチャンスを、なぜこんな場所で失わなければならないのか? 仕事をクビになってまで『SHINOBI』に執着したのは、なぜだったのか?
答えは出てしまった。自分の衰えを認められなかったからだ。
妻から差し出された離婚届に判を押した時に言った言葉を思い起こす。
俺はもう一度『SHINOBI』を倒して戻る。そうしなければ生まれ変われない。生まれ変わったら、改めて結婚を申し込む。だから、待っていてほしい――。
妻は、うつむいて涙をこらえていた。本心では、離別など望んでいないようだった。だが妻は結局、子供を連れて長野県の実家へ戻っていった。
『SHINOBI』のために身体を鍛えるには、多くの時間を必要とした。当然、仕事はおろそかになる。所詮、埼玉のガソリンスタンドの店長だ。会社は地元では有名な燃料店だが、持っているスタンドは5店に過ぎない。最初はテレビに社名が出ることを宣伝になると考えていた会社も、売り上げ不振が長引けば一社員の道楽を許す余裕を失う。出世もできず、残業手当も少ない矢作を、妻は何年も陰から支えていた。だが、子供が生まれれば満足にパートにも出られない。すでに、30歳も越えた。一度は頂点に立った矢作はその時、これからは家族のために生きようと覚悟を決めた。決心を打ち明けた時の妻の笑顔は、心からのものだった。矢作は、ずっと妻に精神的な重荷を背負わせていたことを思い知った。自分の我がままが、妻を追い込んでいたのだ。
矢作は『SHINOBI』を捨て、別の人生を選ぼうとしていた。あの瞬間までは、本気で――。
だが、テレビ局からの招待状に描かれた新たなステージのイラストを見たとき、すべてが変わった。矢作が内心で苦手としていたステージばかりが広がっていたのだ。それは、矢作に向けた『SHINOBI』の哄笑に思えた。
お前など、真の制覇者と呼べるものか――。
受けて立たないわけにはいかなかった。
せめてサードステージまで進めれば、諦めがついたかもしれない。だが、こんな場所で沈むのは、茶番だ。人生そのものが、茶番だ。泣くしかない。池の泥水が涙を隠すのが、せめてもの救いだった。
泥水の池のふちに仲間たちが駆け寄って手を差し伸べていた。シノビ・オールスターズの4人だ。サードステージの常連、古くからともに『SHINOBI』に挑んできた戦友だ。
『SHINOBI』は参加者同士が争う競技ではない。複数の制覇者が出ることも許されている。倒すべきは〝悪魔の要塞〟だけだ。だから脚を引っ張りあう必要もない。オールスターズは、本当に互いの気持ちが理解できる仲間たちだった。
一人は、すでにファーストステージ突破を決めている。池の縁から差し出された手のひらをつかむ。
誰かがつらそうに言った。
「なんでこんなところで……」
矢作は、彼らが涙を流しているのを見た。彼らは矢作の姿に自分の未来を重ね、身体を押し潰されるような痛みを感じているのだ。『SHINOBI』に人生を捧げたオールスターズにしか理解できない痛みだ。
矢作は素直につぶやいた。
「ごめん……俺……終わったかも……」
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