フェイズ1――捕獲

1

 意識を取り戻してすぐ、矢作は自分が椅子に縛り付けられていることに気づいた。頭がぼんやりしている。夢を見ているようなふわふわした感覚だった。それでも、自分が座ったまま動けないことは分かった。なぜか、監禁されているらしい。

 他人事のように思えた。

 最初に感じたのは『ああ、やっぱりな……』という、妙に醒めきった諦めだった。この世にうまい話はない――矢作はいつも、自分にそう言い聞かせてきた。失敗するたびにそうしてきたのに、また同じ間違いを犯したようだ。〝ヤバい話〟に関わってしまったのだ……。

 それも当然だ、とも思う。自分はすでに落伍者だ。落伍者は、もがけばもがくほど深みにはまるものと相場が決まっている。妻子を裏切った報いだ。〝普通の暮らし〟に満足できなかった自分が、普通ではない世界に堕ちるのは必然なのだ。どん底に堕ちることは、離婚届けに判を押した時に決まったのだ。

 矢作自身が手繰り寄せた結果だ。

 重苦しい溜息をゆっくりと漏らした。溜息とともに、諦めを吐き出す。そして、自分を鼓舞するように言葉にした。

「それなら、どう対処するか考えるまでだ」

 身体の奥からアドレナリンが沸き出すのが分かった。

 薄暗い部屋だった。空気がひんやりと冷たい。目が慣れてくると、おおよその広さがつかめた。次第に頭もはっきりしてくる。

 覚えているのは、センチュリーに乗り込んだところまでだ。後部座席の重厚な革張りシートに驚いていると、クビの後ろに冷たい感触を感じた。何かを押し付けられたのかと思った瞬間、プシュッという空気が漏れるような音がした。同時に、意識が遠のいていった。

 今でも、かすかに頭痛がする。何らかの薬品を投与され、意識を奪われたらしい。つまり、拉致されたのだ。

 鼓動が早まるのを抑えきれなかった。意識的に深い呼吸を繰り返し、興奮を鎮めようとする。パニックを起こすな、と自分に言い聞かせる。冷静さを保てなければ、〝障壁〟は越えられない。気持ちの変化は、必ず身体の変化に反映される。焦れば焦るほど、身体は思い通りにコントロールできなくなる。それは、何度も挑んだ『SHINOBI』から学んだ現実だ。不完全ではあるが、動揺を抑える術も多少は身に付けている。

 拉致――?

 人違いではないことは確実だ。なぜ自分が攫われるのか? 誘拐したところで、財産などない。身代金を払える知り合いもいない。すべてを失った自分に、何の価値があるのか?

 目を閉じる。ゆっくりと呼吸をしながら、身体の隅々に神経を配る。

 筋肉に痛みはないか――。

 皮膚に傷はないか――。

 骨に異常はないか――。

 熟練した整備士が最新の戦闘機をチェックしていくように、自らの肉体の細部を〝感じて〟いく。それは、〝悪魔の要塞〟の前に立った時に必ず行っていた儀式だった。そうすることで神経と筋肉の繋がりを極限まで高め、精神の平静を得るのだ。

 鼓動が落ち着いていくのが分かった。首の後ろにわずかな痺れと痛みを感じる。だが、問題になるほどではない。椅子に縛られた時にねじられたような感じだ。それとも、薬品を注射されたためか。

 ゆっくりとまぶたを開く。

 部屋の細部が見て取れた。小さな家なら一軒、すっぽりと収まりそうな大きさだ。しかも、天井が異様に高い。壁はコンクリートの打ち放しのようで、床は安っぽいクッションフロアだ。がらんとした、馬鹿でかい直方体。内部には、家具のような物は何一つ見当たらない。その真ん中に、椅子が一脚、床に固定されていた。

 その椅子に縛り付けられているのが矢作だ。

 椅子は無骨な木製だった。両側に肘当てがあり、矢作の手首は太い革ベルトで肘当てに固定されていた。足は床に届いている。つま先で思い切り床を押してみる。椅子はぴくりとも動かない。足も動かない。身体をねじっても足元は見えなかったが、足も椅子に縛られているようだった。服は、車の乗った時のままだ。トレーナーに綿パンツ、履いていたスニーカーも脱がされていない。動ける範囲で身体を動かしてみる。ズボンのポケットの中に財布やキーチェーンが入っていることを感じた。手荷物のボストンバッグは見当たらないが、身に付けていた物は何も奪われてはいないようだ。

 おそらく、誰かがこの状況を監視している。

 矢作は叫んだ。

「何のつもりだ⁉ 誘拐なんかしても、俺には金はないぞ! 俺のこと調べたんなら、それぐらい知ってるんだろう⁉」

 自分で言ってから、その事実に気づいた。

 スーツの男は、矢作の顔も名前も知っていた。『SHINOBI』会場にいることも予測し、そこで待ち構えていた。当然、素性も知っているはずだ。しかも、バカ高い車で迎えにきた。SPのような仕草から、大きな組織の一員であることも伺える。CEOという言葉は単なる欺瞞で、実態は犯罪組織だとしか思えない。だとしても、充分な資金とマンパワーを持っている。相手は男一人ではなく、〝彼ら〟なのだ。

 ならば、矢作がしがないガソリンスタンドの店長――いや、それすらクビになった文無しだと分かっているはずだ。なのに、なぜ誘拐などするのか? 犯罪組織に拉致される原因など、思いつきはしない。

 自分の叫びが硬そうな壁に反響し、耳に残る。返事はない。

「誰もいないのか⁉」

 やはり返事はなかった。

 監視していないということは考えにくい。放置されているのか、あるいは会話の必要はないということなのか。このまま縛られているべきなのか、抵抗するべきか? 待っていれば何かが起きるという保証はない。何も起きなければ、いつかは乾涸びて死ぬ。そうやって矢作を殺すことが目的だということも、否定できない。拉致の理由が、何一つ分からないのだから。

 抵抗するなら、体力がある今だ。反応がないなら、起こさせればいい。それが彼が常に選んできた生き方だ。

 矢作は高い天井を見上げた。およそ10メートルはあるだろうか。小さな蛍光灯が何本か輝いている。三階建ての建物を軽く越えそうな高さだ。何のための部屋なのか分からない。壁は一メートル四方のパネルを貼付けたようなデザインだ。継ぎ目はやや凹んだ溝になっているようだ。振り返って背後を調べる。両手両足を縛られた状態で、精一杯身体をねじった。背後の壁も構造は同じだった。出入り口が見当たらない。おそらく、パネルの継ぎ目に隠されているのだろう。まるで、誰かを監禁するためだけに作られたような部屋だった。

 だが背後の壁は、一カ所だけ他とは違っていた。7、8メートルほどの高さに、大きな換気口が取り付けられていたのだ。大きさはパネル一枚分。つまり1メートル四方だ。矢作の身長は165センチで、筋肉質だが細身なので体重も重くはない。巨漢とは言い難いから、換気ダクトの断面が排気口程度の大きさなら楽に通り抜けられる。だが、換気口には細かい格子状の蓋がついていた。見分けはつかなかったが、おそらく四隅はビス止めされているだろう。

 矢作は脱出を決意した。

 換気口の位置はジャンプしても届かないが、壁の溝を使えばたどり着ける。キーチェーンを使えば、換気口の蓋を外せるかもしれない。まずは、椅子から解放されるのが先決だ。

 腕を上げて肘当てを引き上げる。びくともしない。背中に体重をかけて背もたれを押す。やはりぴくりとも動かない。頑丈そうなのは、見かけだけではない。だが矢作も、一度は『SHINOBI』を撃破した猛者だ。体力には自信がある。むしろ、体力の他には取り柄がない。

 さらに深呼吸を繰り返して、呼吸を整える。そして一気に筋力を解放した。つま先で床を押しながら、身体をのばす。全身の筋力を背中に集め、背もたれを押す。背中に痛みが走り抜けた。だがその痛みは、己の筋力から想定される範囲の反作用で、肉体の変調からくるものではない。むしろ、肉体のコンディションが万全であることの証で、矢作に安堵をもたらした。

 それでも椅子はびくともしない。

 矢作は諦めなかった。もう一度息を整えると、背もたれに向けて一気に筋力を吐き出す。さらに深呼吸を繰り返し、何度も背もたれに圧力を加えた。背もたれがわずかに動いたと感じたのは、10回目だった。次には椅子の継ぎ目からかすかな軋みが聞こえ、15回目には背もたれはぐらぐらと大きく揺らいだ。ばきっと大きな音を立てて椅子が破壊されたのは、17回目だった。

 矢作は両腕に壊れた肘掛けを縛り付けたまま立ち上がり、背中を伸ばした。息が荒くなっていた。体力の消耗は激しい。背中の痛みも普通ではない。だが、『SHINOBI』のステージで鍛え上げられた肉体にとっては大したダメージとはいえない。〝障壁〟を一つ突破したことは、むしろ喜びだ。矢作の身体は、〝実戦体勢〟に入っていた。

 口元には、わずかな微笑みが浮かんでいた。

「ファーストステージ突破、だな」

 矢作は手首とふくらはぎに巻き付いていた革ベルトをはぎ取った。これで肉体は完全に解放された。足元に落ちた椅子の残骸を部屋の隅に投げ捨てると、周囲の壁をチェックしていく。部屋の中を一回りしても、やはりドアらしき物は見当たらない。どこを押しても硬いコンクリートパネルだとしか思えない。ただ、パネルのつなぎ目にはやはり溝があった。指を差し込んで深さを確認する。

 浅い。1センチを越えるか越えないかの程度だ。

 だが、指先が滑らなければ体重を支えられる。

 矢作は覚悟を決めた。換気口の下に立って、壁を見上げる。身体をほぐすように軽くジャンプを繰り返した。床からの反作用を確かめながら、身体の細部を再び〝点検〟していく。そして、つぶやいた。

「行ける」

 ポケットから鍵束を取り出すと、それを口にくわえる。壁に手をついて、継ぎ目の深さとその感触をもう一度確認する。小さくうなずくと、壁に張り付くようにして下から二つ目の継ぎ目に右手の指をかけた。その指先で全身を引き上げながら左のつま先を一つ目の継ぎ目にかける。スニーカーの先端がわずかに継ぎ目に引っかかった。しかし継ぎ目の深さだけでは、足で身体を支えるほどの安定感は得られない。それでも、手製の模擬ステージで『オーバーハング』の訓練を積んできた矢作には十分だった。身体を引き上げるのは指先の力だけでいい。足は、身体がぶれないように安定させるだけだ。

 四肢のうち三カ所は必ず壁に密着させ、残る一つを上げる。右腕の次は左腕、右足、そして左足へ。一見何もないように見える壁の浅い溝に掴まりながら身体を支え、引き上げる。『三点支持』と呼ばれる、フリークライミングの基本に忠実な登攀法だ。

 矢作はフリークライミングの中でも特に技術を必要とするボルダリング――ほとんど用具を用いずにロープでの安全確保も行わない競技での訓練も豊富だった。訓練は特設のコースや自然の岩場で行ってきたが、それに比べれば目の前の壁は難易度が低い。手掛かりは浅いが、並び方が規則的だからだ。いったん配置を飲み込んでしまえば、同じ作業を繰り返していくだけでどこまでも登っていける。

 矢作は、まるで外敵から逃げるヤモリのように素早く壁を這い上った。瞬く間に換気口に手を届かせる。

 換気口の蓋は、壁から5センチほど凹んだ位置に取り付けられていた。矢作は身体を丸めてその凹みに押し込んだ。抜群のバランス感覚を持つ矢作にとって、その姿勢で身体を安定させることなど雑作もない。

 蓋の四隅は、思った通りビス止めされていた。矢作は、専用のドライバーが必要なのではないかと恐れていたが、杞憂にすぎなかった。ビスにはコインなどでも廻せる深い溝が切ってある。咥えた鍵束を取って、キーの一つを溝に当てる。楽にビスを廻すことができた。ビスが外れると、身体の向きを変えながら次に移る。三分後、外した蓋を下に落とした矢作は、換気ダクトに潜り込んでいた。

「セカンドステージ、クリア」

 金属板で囲まれたダクトの中は暗かったが、通り抜けられる大きさがある。先にはぼんやりとした明かりが見える。四角い通路の中を、足元の固さを感じ取りながら這い進んでいく。矢作の体重を支えるだけの安定感はある。とりあえずは、明かりが目的地だ。目指す〝クリアボタン〟に向かって障害を乗り越える――それは、矢作の全身に刷り込まれた本能だった。

 途中、何カ所かダクトが枝分かれする場所があったが、なぜかすべてがっちりした金網が溶接されて一方にしか進めない。何度か直角の角を曲がる。その度に、前方の明かりは強くなった。ダクトはうねりながらも、明かりまでは分岐することなく繋がっていた。

 矢作は、理解した。自分が光に向かっているのではない。光に引きつけられているのだ。誘蛾灯に吸い寄せられる虫のように……。

「ヤバいな……」

 何らかの〝罠〟かもしれない。だが、他に選べる出口はなかった。最初の部屋に引き返しても、振り出しに戻るだけで意味はない。相手が誰だかは分からないが、〝彼ら〟がそれを望むなら、今はそれに従うしかない。

 ダクトの先に蓋はなかった。矢作は換気口から身体を出し、その部屋を確認した。監禁されていた部屋と瓜二つだ。だがここには、椅子さえもない。空っぽだ。矢作は溜息を漏らすと、換気口にぶら下がって壁に張り付く。足場を確かめながらパネルの切れ目に指を差し込み、壁を降りていった。

 床に立った矢作は天井を見上げて叫んだ。

「お前ら、何がしたいんだ⁉ 俺に何をさせたいんだ⁉」

 背後で、壁が開く音がした。

 振り返ると、あの男が立っていた。スーツ姿の男は言った。

「34分だ。素人にしては破格な記録だ。そもそも、並の人間ならあの椅子から逃れられない」

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