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矢作は堅いソファーで居心地悪そうに尻をずらした。目の前のテーブルに置かれたのは一〇〇万円の札束だった。正面に座った男が微笑む。
「私の名は神崎。この金は、これまでの分のギャラだ。君のものだよ」
応接セットは神崎が開けた扉の奥、隣の部屋に置いてあった。部屋の半分は多彩な電子機器で占められ、何台か置かれていたモニターには矢作が監禁されていた部屋が映し出されている。片隅にはバラバラになった椅子が見える。一台は、通気口の内部を映していた。機器の真ん中で、白衣を着た別の男がキーボードを操作している。
矢作の行動はすべてここで監視されていたのだ。操作員が、プリントアウトされた用紙を神崎に渡す。神崎はその用紙にしばらく目を落とした。
矢作は目の前の札束をじっと見つめていた。
『SHINOBI』は本来参加者の側が実費を負担して参加する競技だ。だがオールスターズの一員であった矢作は番組の成立に欠かせない存在だった。だから、交通費の他にもいくらかの出演料が支払われていた。それでも、この100万円には及ばない。この金が本当に手に入るなら、矢作が抱える問題は幾分か軽くできる。
しかし、犯罪組織の目的がこれだけで完結しているとは思えない。こんな場所を準備するだけでどれほどの金額がかかるものなのか? 奇妙な電子機器まで大量に用意しているのだから、半端な額ではないはずだ。いわば、投資だ。投資する以上は、それをはるかに越える利潤を想定している。札束とともに解放される可能性は低い。次に、何を要求されるのか……。犯罪に加担するように命じられるのは避けられないと思える。
矢作は神崎の様子に目を移し、口を開くのを待った。
それを察したのか、神崎が身体を動かさずに囁く。
「驚くべき数値だな……実は、君を縛った椅子にはフィルム状の圧力センサーが隠されていてね、君の身体能力を正確に測っていた。まさにオリンピック選手並みのパワーと敏捷性、バランス感覚を備えていることをこの数値が証明している」そして神崎は矢作の目を見返した。「『SHINOBI』とは、馬鹿にできない競技なのだな」
それは正しい。
「だから負けたんだ」
神崎はうなずいた。
「それでも君には我々が求める資質がある」
矢作は思い出した。神崎は最初、仕事をオファーしようとしてきたのだ。多額の報酬――それは、目の前の札束以上の物だろう。監禁されたのは、一種の〝入社試験〟だったらしい。
「仕事……なのか?」
「受けてもらえるかな?」
矢作はすぐには答えられなかった。この建物と設備を見ただけで、組織が巨大であることが伺える。監禁された上に密かに潜在能力を測られたことには、悪辣な意図が感じられる。公にできる仕事なら、最初から目的を明かして堂々と能力を測ればいいのだから。
矢作は尋ねた。
「犯罪なのか?」
「見方による」
矢作は、その返事をどう捕らえればいいのか分からなかった。犯罪的な行為ではあるが、ある者にとっては正当性があるということなのか。その立場の違いとは、何なのか……?
「あんたら、何者だ?」
「それは、君の合意が得られるまで明かせない」
「なぜ俺を監禁した?」
「君の反応を確認したかった。主に精神的な強靱性を、だ。未知の状況をどう分析するか、どう対処するか。危機をどうねじ伏せるか――決断力と行動力、そして柔軟性が知りたかった」
「人様に黙って、勝手に――だがな」矢作のいらだちが募った。金は欲しい。だが、危険は冒したくない。どのようなものであれ犯罪には加担したくない。自分は身勝手な男だ。それが原因で、人生のすべてを失った。妻子を失った。だが、他人を傷つけたかった訳ではない。我がままだが、悪党ではない。「俺を犯罪に引きずり込もうとしているんだろう?」
神崎は話をはぐらかした。
「ギャラを聞かなくていいのか? 億単位だぞ」
それが決め手だった。矢作の気持ちは一瞬で固まった。
きっぱりと言った。
「断る」
高額すぎるのだ。それだけ危険な仕事だ。明らかに法を犯させようとしている。人を傷つけようとしている。
神崎は溜息を漏らした。
「計測値通り、決断が早いな。いいだろう、予期していたことだ。というより、そういう人間を求めていた」
そして、傍らに置いてあった黒いファイルを開いてしばらく眺めると、矢作に向かって差し出した。
矢作はファイルに目を落とした。A4サイズにプリントされた写真が2枚挟まっていた。その瞬間、矢作は息を呑んだ。
写真に写っていたのは元妻と息子だった。一枚は二人が住む実家をバックに、もう一枚は保育園の正門が写っている。どちらも、普段の姿を盗み撮りした写真だ。まるで、浮気調査の興信所員が撮影したような――。
「これは……」
神崎は、それまでと全く同じ口調で言った。
「君はどういう意味だと考える? 説明してみたまえ」
脅迫だ。いつでも好きな時に二人に危害を加えられるという、無言の圧力だ。金で動かない人間を動かすための梃子だ。ヤクザの手口だ。
「俺を脅す気か……? 言うことを聞かないなら、二人に危害を与えるつもりなのか……?」
「だったら、君はどうする?」
脅迫は、弱みがあるから成立する。この二人が弱点だと見抜かれなければ、付け込まれない。二人に危害は及ばない。騙さなければならない。
写真に目を落としたまま、声が震えないように注意を払いながら言った。
「こいつらとは、とっくに離婚が成立している。調べてるんだろう? 未練もない。喧嘩別れだからな。今更こいつらがどうなったって構うもんか」
「だが、この子は君の血を引いている」
矢作は鼻で笑う。表情の変化に気づかれないように願った。
「だが、一度も俺になついたことがない。それが別れた最大の原因だ。子供が愛せていれば、諍いはなかった。離婚なんかしなかった」
そうではない。息子はいつも無邪気にまとわりついてきた。模擬ステージでのトレーニング以外の時間は、息子をバーベル代わりにして、遊びながら筋力アップを図っていたのだ。
神崎はじっと矢作を見つめていた。不意に、かすかな微笑みを浮かべる。
「大谷、データを」
矢作ははっと目を上げた。電子機器に囲まれた操作員――大谷と呼ばれた男が、矢作にビデオカメラのような物を向けていた。大谷はそれを降ろすと、機械を操作してスーパーのレシートのような紙片を吐き出させる。それをちぎると、無言で神崎に渡した。
矢作は思わずつぶやいた。
「何だよ、それ……」
神崎は紙片を見つめながら応えた。
「ストレスセンサー……心理状態を記録する装置だ。表情や声の調子の変化を数値化して、分析する。その結果だ。――君はたった今、嘘ついた」
思わず声のトーンが上がった。
「嘘なんかじゃない!」
「数値は正直だ。君の弱点はこの二人、別れた奥さんと子供だな。それも最初から予測されていたことだ」
「違う! 奴らとはもう関係ないんだ!」
男はかすかに笑いながら言った。
「君は孤独な男だ。両親はすでに死んでいる。兄弟はいない。親戚はいても、付き合いは全くない。仕事がないから、仕事仲間もいない。近所とも疎遠だ。あるのは『SHINOBI』だけのようだ。そんな男にとって、元妻と実子がどれだけ重要な意味を持つか、誰にでも予想できる」
矢作は身を乗り出した。
「やめろ! 子供たちには手を出すな!」
「もちろん、出さない。君の協力が得られる限り、だがね。だから、君は我々に従うしかないのだ」
矢作は、唇を噛んだ。また、負けたのだ。
その姿をじっと見つめた神崎は穏やかに言った。
「では我々のCEOを紹介しよう。レディ・ドラゴンだ」
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