周の言葉は、神崎が確かめた。周の手首を捩じり上げて送金装置に指を押し付け、残金を確認させたのだ。

 周は逆らわず、薄笑いを浮かべていた。すでにストレスから解放されていたのだ。装置も正常に動作した。装置の小さなディスプレイに現れた液晶が示す残金は、0だ。

 神崎は流暢な北京語で送金先を問いただしたが、周は肩をすくめるだけだった。

 神崎は敗れたのだ。だが、その表情に落胆は見えない。逆に、神崎の自信に満ちた表情を見た周が顔を曇らせる。

 神崎は周を睨みながら日本語で言った。

「まあ、いい……対応策はすでに済ませてある」そして、胸ポケットから取り出した通信機に話しかけた。「プランB、実行を開始する。合流地点はタワー2のペントハウスに変更。あと何分で取りかかれるか?」

 通信機からノイズ混じりのかすかな声が漏れる。

『射程に入るまで、1分25秒』

「北西の窓を狙え」

『了解』

 矢作はもう、プランBが何を意味するのか聞こうともしなかった。どうせ、一つ間違えば死ぬ運命にある。たった数時間で、何度そんな危険を乗り越えたか……。たとえ死なずにすんだところで、犯罪者、あるいは国家への裏切り者になる。おそらく、人も殺した。逃げることも、逆らうことも許されない。自ら命を絶つ道も塞がれた。

 もはや、ハッピーエンドなどあり得ない。

 慰めはただ一つ、それでも息子たちが守れるということだけだ。

 だが、確かめたいことはあった。ずっと気にかかっていたことだ。

 傍らに立つケイコに尋ねる。

「君は、何のために戦ってるんだ?」

 不意の問いに、ケイコは困ったように矢作を見返す。

「何のため? ……他に道がないから……かな」

 矢作には意外な答えだった。ケイコが神崎の仲間なら、やはり北朝鮮のスパイだということになる。スパイとは、自ら望まなければなれないものだと思っていた。しかも、ケイコほどの肉体はストイックに鍛えなければ作れない。誰かに強制されてできるとは考えにくい。

「戦いたくはないのか?」

「……あなたは? あなたは、なぜここにいるの?」

「俺は……」神崎に視線を移す。神崎は何も言わない。「脅迫されたんだ。断れば、息子を殺される」

「息子さんだけ? 奥さんは?」

「別れた」

「あなたは子供と一緒に暮らしているの?」

「息子は元嫁のところだ。まだ3歳だから。もう俺の顔も覚えてはいないかもしれない……」

「それでも? 別れた人たちのために、命を捨ててもいいの?」

「それでも、息子だ。元嫁にだって済まないという気持ちはある。我がままを言い続けてきたのは俺だから。離婚の責任も俺にある。自分が生きる代わりに見殺しにするなんて、できるわけがない」

 ケイコはしばらく沈黙してから、つらそうに応えた。

「わたしにも、家族がいるから」

「家族を守るため……なのか?」

「わたしには、守れる力があった。だから国に選ばれて、鍛えられた。家族は今、幸せでいられる。わたしが、国に従っているから。だから、従い続ける。どんなに苦しい思いをしても……」

「それで人殺しまでしたのか?」

「いけない?」

「いいわけがない」

「この日本では、そうかもしれないわね……。でも、わたしの国では、人は国の所有物……いえ、共産党の道具。これだけ国が揺らいでいる今でさえ、何一つ変わらない。人の命なんかありふれている。邪魔なほど、余っている。お金で買えるし、いつ、どんな理由で断たれるかも分からない。正しいことを言っても、泣き叫んでも、誰も助けてくれない。だから、自分で守るしかないの。自分も家族も、わたしが守る。わたしには、その力があるから……」

「それで幸せなのか? 自分を犠牲にして……」

「犠牲? それって、悪いこと? ほとんど全ての中国人は、犠牲になる権利さえ得られずに死んでいくのよ。家族を守れる力を持てる人間なんて、ほんのひとつまみ。わたしがここにいられるのは、天から与えられた奇跡なの。わたしはこの奇跡に感謝している」

「でも……」

「あなたには分からないでしょうね。日本に生まれるってことは、それだけでわたし以上の奇跡に恵まれたってことですから。でも、恨み言は言わない。不公平なんてこの世の定めですもの。わたしがここにいれば、わたしが守りたい人たちが生きられる。生き続けられる。それだけ……」

「逃げられないのか?」

「逃げてないじゃない、あなただって……」

「悲しいな……」

 ケイコは視線をそらせて口をつぐんだ。その姿には、理不尽な環境に耐え、戦い続けた人間の覚悟がにじみ出している。

 神崎が命じた。

「来たぞ。障害物に身を隠せ」

 すぐにかすかなエンジン音が聞こえた。

 矢作が問う。

「今度は何だ⁉」

「本物の戦争だ。隠れろ!」

 矢作にとってはこれまでも〝戦争〟だった。だが神崎には、本物と呼べるような戦いではなかったようだ。もちろん矢作には、〝本物〟が何を意味するか分からない。考える余裕もなかった。

 外のエンジン音は爆発的な勢いで大きくなった。タワー自体をびりびりと揺さぶる轟音だ。矢作たちはキングサイズの重いベッドを倒して衝立にして、その陰で耳を塞いでうずくまった。

 と、轟音の中にさらに腹に響く銃声が起こった。重火器の連射だ。ブォーンという耳鳴りのような重低音が全身を覆う。矢作がこれまで聞いた銃声とは比べ物にならない、はらわたを揺さぶるような激しい音だった。銃弾は、タワーに撃ち込まれているようだ。壁越しに室内の調度や窓が砕けるような異音が混じった。タワー1では酸素ボンベの爆発でも割れなかった窓が、粉々に砕かれているようだった。

 矢作は頭を抱えながら一人つぶやいた。

「これが本物なのかよ……」

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