眼下を、緑の大地が音速に近い速さで流れていく。双発のジェットエンジンがもたらす力強さと安定感が心地よい。まだ、地上は自軍の勢力圏だ。敵は遠い。今は心をリラックスさせて、〝その時〟に備えるべきだ。

 絶対に間違いは許されない。

 プランBの発動は、エースパイロットの黄宏生(ホワン・ホンセン)にとって初の実戦出撃を意味した。最新のステルス戦闘機、殲20の空戦訓練は充分以上に行っている。黄に従う二機の部下も、度重なる〝パトロール〟で共に汗を流してきた精鋭だ。

 だが、実戦は違う。何が起きるか予測できないし、判断を誤れば自分たちが死ぬ。そればかりか、国が世界から非難される。それでも、黄はやり遂げなければならなかった。

 部下たちは仲間ではあるが、地方出身の黄とは違う〝太子党〟だ。国が分裂した今でさえ、その身分の差は厳然と存在する。共産党幹部の息子たちに混じってのし上がるには、誰にも文句を言わせないだけの実力が必要だった。これまではやり遂げてこられた。血へどを吐きながらであろうとも、トップに立ち続けた。これからもこの場所を揺るがない指定席にするため、作戦を成功させなければならないのだ。

 黄にとっては、全身を揺さぶるようなエンジン音も、母の胎内にいるような安らぎをもたらす。眼下を過ぎ去っていく風景は見慣れたものだ。日常的に繰り返すパトロールと何も変わりはない。

 変わりはないはずだ。ただの護衛任務にすぎない。砲火を交えをことなどありはしない。少なくとも、『こちらからは発砲するな』と厳命されている。撃たない限りは、今まで通り日本軍は発砲してこない。法的には自衛隊が国軍機能を備えたとはいえ、長年染み付いた〝事なかれ主義〟の習性はそう簡単に捨て去れないと分析されていたのだ。

 作戦の目的が中国に帰還する周金幣の警護だということは、離陸直前に知らされていた。無事に周の身柄を母国に取り返せれば、国外に流出した膨大な資産も奪還できるという。それが成功すれば、黄の評価は〝成り上がり〟から〝英雄〟へとランクアップする。自分自身も家族も、この先一生、豊かで安全な生活を約束されるだろう。絶対に失敗はできなかった。

 作戦は必ず成功する――自らにそう言い聞かせた。

 作戦予定空域は、日本海の公海上。敵は日本の自衛隊。

 実力行使の権限は現場の指揮官に預けられている。

 万一の瞬間が訪れれば、上層部は判断を黄に投げ出す。自分が出した命令が不都合な結果をもたらせば、責任を問われるからだ。そもそも、戦場では状況に即した素早い決断が求められる。黄は、決断は自分が行わなければならないと覚悟を決めていた。

 明日、世界がどちらに転がるかを決める決断だ。判断を誤れば、中国と日米との全面戦争に陥りかねない。それが中国の滅亡に直結することを、黄は知っていた。

 たとえ自分が世界の行方を決することになっても、動揺してはならない。そのために訓練を積んできたのだ。この場所に来るために、すべてを引き換えにしたのだ。

 眼下に海が広がった。作戦空域は、近い。スロットルを倒す。黄は、まるで馬にでも蹴られたかのようにシートに押し付けられた。血液を沸騰させる圧力だ。機体は、最高速のマッハ1・8をめがけて一気に加速する。

 エンジンはロシア製だから故障の心配は少ない。帰りの燃料は空中給油機が運んで来る。燃料の消費量を気にせずに吹き上がった轟音に、黄の頬が緩んだ。

「生きてる……俺は生きてる……少なくとも、まだ今は……」

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