指定されたカラオケルームで待っていたのは、レディ・ドラゴン一人きりだった。チェーン展開している、駅前のありふれたカラオケ店だ。隣の部屋からは、調子はずれの歌声がかすかに漏れてくる。

 矢作の元に、その部屋に来るようにというメールが届いたのはほんの2時間前だ。整形手術を終え、病院から退院したばかりだ。メールには『L・D』の署名があった。

 ポータブルDVDで再生されたのは、確かに何度か訪れた事がある妻の実家の光景だった。その部屋で、何者かと会話をする元嫁だ。元嫁にしがみつきながらも、時々カメラに顔を向ける息子の姿もはっきり写っている。

 録画を見終わった矢作が、ぽつりとつぶやく。

「10億か……本当に渡してくれたんだな……。でも、俺……これで死んじゃったんだよな……」

 レディ・ドラゴンがうなずく。

「もう、顔も変えちゃったしね。不満かい?」

「いや……仕方ないってことは分かる。日本海で死んだことにしておかなくちゃ、中国に報復されかねない。嫁とよりを戻せば、あいつらまで狙われる。〝死ぬ〟しかないよな……」

「たった数時間で200兆円以上の資金を掠め取られたんだから、黙っちゃいない。今のところはアメリカ国債が消えたことでてんやわんやだから、そんな余裕はないけどね。だけど、あいつらはしつこいよ」

「神崎も死んだことになってるんだろう?」

「ま、そうだろうけど、聞いちゃいない。自衛隊にもなんか考えがあるんだろうから。死人って、案外、秘密工作には都合がいいもんだからね」

 矢作は、手渡されたばかりの運転免許証を改めて見つめる。

「真田健司……ね。この名前に慣れるんだろうか……」

「慣れるしかないよ。それは、〝本当のあんた〟の名前なんだから。住民票やらパスポートやら、実在を証明する書類は全部揃えた。元嫁とすれ違っても、あっちは気づかないほど別人になってるしね」

「本当の俺……か」そして、気づいた。「あれ……? ってことは、もう一回あいつを嫁にしてもいいってことか?」

「そりゃそうだが……やめた方がいい」

 矢作は興奮して身を乗り出した。

「だが、息子は俺の子供だ!」

「それは分かる。ただ、一年ぐらいは我慢しときな。10億もの金が転がり込んだんだ。大金は人間を変える。変わった方の人間が、本当のそいつだ。金ってのは、人間の本性を暴く魔法を隠しているんだよ。だから、我慢しな。一年過ぎて、それでも元に戻りたければ、あたしが手を貸すから」

 矢作はしばらく考えてから、うなずいた。

「そうさせてもらうよ。で、話ってこれだけか?」

 レディ・ドラゴンは言った。

「大熊竜子」

「は?」

「それが本当のあたしの名前だ。竜子の竜は、竜の落とし子の竜、りゅう――つまりドラゴンだ。だからあの作戦ではレディ・ドラゴンと呼ばせていた」

 矢作は、レディ・ドラゴンが真実を明かそうとしていることを感じ取った。

「あんた、何者だ? 打ち明けてくれるんだろう?」

「罠師」

「ワナシ……? 何だ、それ?」

「キワモノ的な言葉を使うなら、秘密犯罪結社――ってところかね。人を罠をかける専門家――策略や謀略を専門に手がけてきた集まりだ。最近じゃお国と手を組むことも多くなっちまったが、大体は権力者には逆らってきた。自分では義賊だと思ってる」

「ギゾク……って?」

「他人を踏みつけにしてのし上がった金持ちから財産を掠め取って、貧乏人に配るような奴らだ」

「何でそんなことをやってるんだ?」

「人助け。義賊、だからね。今回は国を助けるなんていうお利口ぶった真似をしちまったが、古い知り合いから土下座して頼まれれば断るわけにもいかないんでね。しかも、日本はあたしの国だ。あたしたちは、この国を守るために働く」

「本当か……? ただの金儲けじゃないのか?」

「確かに金は儲かる。凄まじい額がね。だがそれは、ほんのおまけだ。人を助けて、なおかつ面白い。だから、続けてる」

「続けてる? いつから?」

「江戸時代から。北朝鮮から拉致被害者を取り返した作戦もあたしたちが組んだ。わずかな間だったが、ロシアにジョンウンの亡命政権を作らせたのもあたしたちなんだよ」

 にわかに信じられない話だった。だが、レディ・ドラゴンの策略が自衛隊を操り、北朝鮮や中国を欺き、200兆円を超えるというとてつもない額の金を動かしたことは疑いようがない。

 世界は確かに、大きく変動した。

 矢作はつぶやいた。

「そうだったんだ……で、なんで突然そこまで明かす? 知られちゃいけないことじゃないか?」

「あんたに頼みたい仕事、あるんだけどねえ」

 矢作は、にやりと笑った。屈託のない、爽やかな笑みだ。

「仲間に入れって? またあんなアクロバットをやらかすのか?」

「怖いかい?」

「面白そうだな。でも、断ったら? 俺を殺すのか?」

「あんたは断らない。分かりきったことだ」

 それが真田健司の――矢作直也の〝本当の人生〟が始まった瞬間だった。


            ファントム・プリズン〈罠師外伝・2〉――了

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ファントム・プリズン 岡 辰郎 @cathands

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